平安に満ちた生涯を送るためにはその条件として喜びを持っていなければならないことをパウロは教えます。この喜びは周りの状況や私たちの感情に基づいて生み出される喜びではありませんでした。神との和解を得ているゆえに、神によって愛され、祝されているというその事実があるがゆえに、私たちが確信をもって「私は喜びます」と宣言することができる聖書的な喜びでした。神が私たちのために常に最善をしてくださっているということを確信しているがゆえに、どのような状況の中にあっても「私は主にあって万全である」と大胆に宣言することができる喜びなのです。では私たちはこのような聖書的な喜びをどうやって手に入れることができるのでしょう。この聖書的喜びはどこから出てくるものなのでしょう。

聖書的喜びはどこから来るのか

聖書的な喜びはこの世の喜びとは異質の喜びです。この世は「喜べるときに喜びなさい」と言いますが、聖書は「いつも喜んでいなさい」と告げています。好ましい状況や状態の時だけ喜ぶのではなく、いつも喜んでいなければならないのです。それゆえにこの喜びは私たちの内側から自然にわき上がってくるものでもありません。私たちの感情によってかき立てられる喜びでもないのです。
聖書的喜びは父なる神を起源とし、子なる神が約束し、聖霊なる神によって生み出されるものです。つまり聖書的喜びとは三位一体の神が私たちの生涯にもたらすすばらしい恵みの働きなのです。

父なる神が聖書的喜びの起源である

ダビデは詩篇4:7–8で「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」 と記して喜びと平安の関係を歌っています。どのような状況も、どのような事柄も、神からの喜び以上の喜びを私たちに与えることはできません。あらゆることが万全であることを知っているがゆえに心の根底において満足をもたらすこの喜びがあるとき、私たちの心は平安に満たされるのです。
たとえ私たちの望むあらゆるものを手に入れたとしても、それらは私たちにほんとうの喜びを与えることはできません。この世の何者も私たちの心を本当に喜びで満たし続けることはできないのです。経済的な安定も、社会的な情勢も、人間関係も、それ以外のあらゆる状況や状態は私たちの心を本当の意味で喜ばせることはできないのです。では一体何が私たちの心を喜びで満たすのでしょう。どこに永遠に続く喜びがあるのでしょう。
ダビデはその回答としてこのように歌っています。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(詩篇16:11)

神には喜びがあるのです。 それは私たちを満たし、私たちに継続的に変わることなく永遠に与えられるのです。いつも喜ぶためには神が与えてくださるこの喜びが必要です。そしてこの喜びは、まさに「いのちの道」であるイエス・キリストを信じることによって神の御前に立つことができる者に豊かに与えられているのです。

子なる神が聖書的喜びを約束する

神を起源とする聖書的喜びは、キリストにつながっている者だけが味わうことができる特権です。主は次のように告げました。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:11)

ここに出てくる「これらのこと」とは15章の前半で語られている内容を指しています。そこで主は、ご自身がぶどうの木で、信じる者たちがその枝であることを教えています。救いに至る真の信仰を持つ者たちは確かにキリストとつながり、豊かに実を結ぶ者となるというすばらしい特権についての教えです。そして、このキリストとの関係について語った理由がこの11節で記されているのです。主はなぜこのような話をされたのでしょう。それは「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるため」だったのです。私たちが主とつながっているときに、主のうちにあるときに、キリストは私たちに主の喜びを与えてくださることを約束してくれるのです。
ではイエス・キリストが持っておられた喜びとはどのような喜びだったのでしょう。それは神の計画をはっきりと理解するがゆえに、いったい何が眼前にあったとしても、どのような状況に置かれていたとしても、すべては万全であると宣言する喜びです。イエスはこの喜びを確かに持っておられました。そのことをヘブル人への手紙の著者は次のように告げています。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)

十字架を目の前にして、主は「喜び」のゆえに苦い杯を忍ばれました。キリストは自分に与えられた喜びがよく分かっていましたから、ご自分の前に置かれた杯を喜んで飲まれたのです。この喜びは私たちがいつか必ず神から受ける祝福に向けているので、今現在どのような困難が私たちの前に置かれていたとしても、真っ直ぐに困難の中を進んで行くことができるものなのです。永遠に神の御座にある喜びを味わう計画に与っているがゆえに、あらゆる状況の中で「私は万全である」と宣言する喜びです。神につながっているときに、イエス・キリストにつながっているときに、そこに喜びがあります。主はキリストを信じる者たちにこの喜びを約束してくださったのです。父なる神がそれを与え、イエス・キリストが約束するのです。

聖霊なる神が聖書的喜びを生み出す

聖書的喜びは神に起源を持ち、キリストとの関係を通して与えられることが約束されています。しかし、キリストを信じる信仰によって救われ、神の御座の前に立つことができるクリスチャンであっても、常にこの喜びをもって生きているわけではありません。なにがかけているのでしょう。聖書はこの疑問に明瞭に回答してくれます。聖書的喜びは父なる神と子なる神から与えられるだけではなく、聖霊の働きを通して与えられるものなのです。
パウロは聖霊が贖われた人物のうちに働くとき、その人の生涯に御霊の実が実ることを教えています。ガラテヤ人への手紙の中でこの御霊の実がどのようなものなのかを具体的に記されていますが、そこには次のようなリストが挙げられています。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22–23)

ここに書かれているように、喜びは御霊の実として聖霊の働きを通して信徒のうちに生み出されるものなのです。このことを私たちが確かに理解するなら、「私は喜ぶことができません」と神の前に言うことはできません。父なる神が喜びの根源であり、子なる神が喜びを与えることを約束し、聖霊なる神は喜びを私たちのうちに生み出す働きをなしているのです。言い訳はできません。私たちが根底にもっているこの聖書的喜びを取り除くものは何もないのです。
クリスチャンは聖書的喜びに満ちて、あらゆる時に喜ぶことができる者です。しかし、喜びがどのようなもので、どこから来るのかを理解しているだけでは、実際に喜んで生きるようにはなかなかなりません。次回はどうしたらこの喜びを得ることができるのかを考えていきましょう。