平安に満ちた生涯を送るための条件

恐れることなく、不安にさいなまれることなく、落胆することなく、平安に溢れて生きることができると聖書は私たちに教えてくれます。しかし、そのような生涯は何もせずに、自動的に起こるものではありません。安全に旅をするには、旅に必要な準備をしなければならないのと同じように、平安に満ちた生涯を送るにも準備が必要です。パウロはピリピ4:4–5で、この準備について書き記しています。パウロは次のように記します。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(ピリピ4:4–5)

平安に満ちた生涯を送るための三つの大切な条件をパウロは提示します。今回はその一つ目を考えていきましょう。

聖書的な喜びが平安に満ちた生涯をもたらす

パウロが示す最初の条件は「喜びを持つこと」です。この「喜び」はピリピ人への手紙の中心的なテーマの一つでもあります。「喜び」また「喜ぶ」という言葉はパウロの書簡の中で計48回使われていますが、そのうちの実に15回がこのピリピ書で使われています。この手紙を通してパウロは、自分自身が喜んでいることを伝え、その同じ喜びをもってピリピの教会の人たちが生きることを願っていました。そして彼はこの手紙の最後に「喜んでいなさい」と命じるのです。しかし、なぜ「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と繰り返したのでしょう[1]。パウロはこの「喜びなさい」という命令を繰り返すことによって、聖書的な喜びをもつことがいかに重要なことであるのかを教え、それを常に持ち続けなければいけないことを教えようとしているのです。

ただ、私たちはこの命令を見て「はい、分かりました。喜びます」となかなかならないことを知っています。いや、むしろ「いつも喜ぶことなんて無理です」と思うことの方が多いことでしょう。パウロは私たちに無理難題を押しつけているのでしょうか。できないことを「しなさい」と命じているのでしょうか。そこでまず考えなければならないことはパウロが言う「喜び」とは何なのかということです。これを正しく理解することがなければ、パウロの命じることを実践することも、ましてや平安に満ちた生涯を送ることもできないのです。

聖書的喜びとは何か?

聖書が喜ぶことを命じているのを私たちはよく知っています。しかし、残念ながら私たちは「その命令に従うことができない」と最初からあきらめているのが実情ではないでしょうか。確かに「喜べ」と言われて、すぐにどんな状況の中でも「喜ぶことができるか」と問われれば、「命じられているのは分かるけど、でも・・・」という返事が返ってくるのは当然でしょう。しかし、ここで注意しなければならないのは、パウロが命じている喜びは、私たちが考えている喜びとは異なる喜びであると言うことです。

一般的に私たちが考えている喜びは感情的な喜びです。それゆえ、悲しいことや辛いことがある時に、喜びの感情を持つことがないので、この命令を守ることはできないと考えるのです。もし「感情を持ちなさい」と命じられているならば、私たちは「できません」と言うしかありません。しかし、パウロの命令は感情的に喜ぶことではなく、喜ぶということを決断する意思を持つ命令なのです。これは神がクリスチャンに求めている愛が私たちの感情に基づくものではなく、意思に基づくものであるのと似ています。愛したくない相手であっても、愛するという決意の下に愛の行為を実践していくように、喜びたくないときであっても、喜ぶという意思をもって生きることを意味しているのです[2]。つまり感情的な喜びを常にもっていなさいと命じられているわけではないのです。

またパウロの命ずる喜びは、環境や状況によって支配される喜びでもありません。いつどこで何が起こるか分からない私たちは、周りの状況をすべて支配することができません。もし周りの状況や環境が自分たちにとって良いものであるときにだけ喜ぶことができると考えているなら、私たちはこの命令を実践することは絶対にできません。周りの状況はある日突然私たちにとって最悪のものに変わって行くことがあるからです。私たちが感情や周りのできごとに喜びを見い出そうとするなら「いつも喜ぶ」ことはできません。私たちが言えるのは、「良い時には喜べるけれど、悪い時には喜べません」となるのです。しかし、パウロが命じることは無条件で「いつも喜び続けなさい」です。では、どのような「喜び」が私たちにそのような「喜び」をもたらすのでしょう。感情的なものでも、環境や状況に左右されるものでもない喜びとはどのような喜びなのでしょう。

パウロが教えるのは「聖書的喜び」です。この「聖書的喜び」 を一言でまとめるなら、私たちの偉大なる神に依存する喜びです。私たちの感情に依存するのでも、私たちの周りの状況に依存するのでもありません。神に依存する喜びなのです。私たちが神との和解を得ているゆえに、神によって愛され、祝されているというその事実があるがゆえに、私たちが確信をもって「私は喜びます」と宣言することができる喜びであり、どのような状況が私たちの周りにやって来たとしても、その状況が私の心の状態を支配することがないという確信です。クリスチャンはキリストにある和解に基づく神との新しい関係を得ているので、たとえ周りの状況が暗黒に満ちていたとしても、 私たちの前に苦々しいものであったとしても、喜びを持つことができるのです。

「クリスチャンが喜びを失うという事実を正当化できる唯一のときは、私たちが罪を犯すときである」とマッカーサー師は記します[3]。詩篇51:12でビデは次のように語ります。「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」この詩篇は罪の告白の祈りです。ダビデが罪を犯したとき、彼の心は責められ喜びを失っていました。なぜなら罪を犯すと神との関係が乱れるからです。確かにクリスチャンは根本的な罪の問題を解決されました。 キリストの贖いのわざによって、キリストを信じる者は神の敵から神の家族へ変えられました。しかし、このように神の家族にされた後でも、私たちが継続的に罪を中を歩もうとするならば、その罪は私たちの持っている神との関係に基づく喜びを私たちから取り除くでしょう。けれども、神と正しい関係を持ち、主の前に正しく生きようとするクリスチャンには、「喜べない」というときはないのです。喜びは神との関係に掛かっているからです。

「喜び」という言葉は、外的状況ではなく、霊的事実に基づいた幸福感を表す言葉として新約聖書の中で用いられています。神が主権者であること、その神との関係が良いものに変えられたことを知っているクリスチャンが持つことができる態度なのです。それゆえに、この喜びは外面的状況に左右されるものではありません。私たちはパウロが言う「喜び」を良く理解しなければなりません。そうでなければ、私たちは「喜びなさい」という命令に対して喜べない自分に悩み続けなければならないからです。

私たちの本当の喜びは神との関係にあると聖書は告げます。この「喜び」を次のように説明することができるでしょう。

喜びとは感情ではありません。喜びとは神が信徒の最善のため、また、ご自身の栄光のために、あらゆる事柄を支配しておられるということ、それゆえに、どのような状況にあってもすべてが万全であるという根底からの確信です。

これが「聖書的喜び」です。 すべてのことが万全であるなら、周りの状況には左右されません。何が起こっても万全だからです。それを確かに知っているので「私は喜べる」と言います。あらゆることが最善であるとクリスチャン一人一人が正しく理解して行くとき、私たちはこの世の中の変わり続ける状況の中で、絶えることなく私たちを襲うあらゆるチャレンジ、あらゆる困難の中で、「私は喜べます。」「 喜んでいます。」と高らかに宣言することができるのです。

次回はこの続き「聖書的喜びはどこから来るのか」を考えます。

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[1] 同じ命令が記されているⅠテサロニケ5:16では、このような繰り返しを見ることはできません。

[2] 命令は基本的に私たちの感情に訴えるもの(感じなければならない)ではなく、意思に訴えかける(行わなければならない)ことを告げています。私たちは必ずしも感情をコントロールすることはできませんが、意思と行動をコントロールすることはできます。パウロの命令はこの意思と行動に焦点が当たっているのです。

[3] John F. MacArthur, Jr. The Power of Suffering: Strengthening Your Faith in the Refiner’s Fire. 2nd ed. (Colorado Springs, Colo: David C. Cook, 2011),  Kindle Location 880.