平安に満ちた生涯を過ごしたくないという人はいないでしょう。私たちは皆、自分たちの人生が平和に満ちたものであることを心から願っています。けれどもその願いを現実のものとしている人は多くはないでしょう。たとえ外面的に不安のない生涯を送っているように見えても、いつも心から平安に満ちた人生を生きている人は皆無であると言っても過言ではないかもしれません。
経験する様々な困難のゆえに、私たちの心は平安を感じることなく過ごすことが多々あります。生きていく中で遭遇する数々の嵐は、私たちの心を暴風でかき乱し、内側から静けさを取り除いていきます。私たちはそのような問題にぶつかる度に困惑し、思い悩み、喜びを失い、心は平安ではなく不安に満たされてしまうのです。誰一人としてそのような状態にとどまりたいとは思いません。けれども、多くの人は問題が起こるたびに思い悩み、喜びを失い、不安の中でもがき苦しんでいます。
一体、私たちの何が問題なのでしょう。どうして私たちは思い悩むことなく、喜びに満ち溢れながら、平安に満たされて生きていくことが困難なのでしょう。「平安に満ちた生涯」というのは私たちの妄想で、そのような人生を送ることは不可能なのでしょうか。本当にそんな人生を送ることができるのでしょうか。
聖書は「平安に満ちた生涯」を私たちが手に入れることができることを教えています。どんな状況の中にあっても、クリスチャンは決して途絶えることのない平安を自らの生涯に見いだすことができることを教えています。特にパウロはピリピの教会に宛てた手紙の最後で、このことを具体的な形で、分かりやすく私たちに示してくれています。どうしたら平安に満ちた生涯を送ることができるのでしょう。パウロの言葉はこのように生きるための「条件」を提示し、「方法」を説明し、そして「実践」を教授してくれます。彼はこう教えています。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(ピリピ4:4–9)

平安に満ちた生涯を送るための条件

旅行をするときに準備を充分にしないで旅に出るならば、その旅行が困難なものになっても驚くことはないでしょう。渡航先の情報を一切調べなかったり、必要なものを詰め忘れていたりすれば、万全な旅路を送ることはできません。人生の旅路においても同じことが言えるでしょう。確かに様々な予想もしなかった問題が私たちを突然襲うことがあります。しかし、もし私たちが平安な生涯を送るために必要な準備をしっかりとしているならば、どれだけ激しい嵐が私たちを襲ったとしても、しっかりと平安を手放すことなく生きることができるのです。私たちがしっかりと準備を整えて人生の旅路を進んでいくことができるように、パウロは二つの条件をピリピ4:4–5で提示してくれます。それらは「聖書的な喜び」と「耐え忍ぶ心」です。「聖書的な喜び」とはいったいどのようなものなのでしょう。「耐え忍ぶ心」がなぜ平安に満ちた生涯の条件なのでしょう。次回の投稿では、まずこの「聖書的な喜び」について考えていきます。