パウロは愛する者とはどのような者なのかを簡潔な言葉で、しかし明瞭に教えています。愛する者は長く苦しむことを疎まない「寛容」な人物で、積極的に相手に取って最善である「親切」を行おうと努め、「ねたまず」「自慢せず」「高慢にならず」相手が誰であろうと常に適切な態度で接するがゆえに「礼儀に反しない」人です。この人は「自分の利益を求めない」ので復讐を求めたりしない「怒らない」人であり、いつまでも「人の犯した悪を思い巡らさない」人物です。このような人物は常に「不正を愛さず」「真理を愛する」人です。なぜなら愛は真実に根ざしたものであり、真理は愛と共に働くからです。

コリント第一の手紙13章7節は愛の姿のまとめ的部分です。愛に関する4つの肯定的説明がなされています。非常に似た概念が繰り返されているように見えますが、そこで使われている言葉は、愛が持つ特徴をより明確に私たちに教えてくれています。

愛はすべてを覆う

まずパウロは「愛はすべてを覆う」と言います。新改訳聖書では「がまんする」と訳されていますが、注釈では「覆う」という訳が可能であることを教えています。ここで使われている動詞のもっとも根本的な意味は「覆う」というものです。あらゆる不備や過ちを覆っていくことを指しています。性格の悪さや外面的醜さ、態度の悪さや感謝のなさ、性格的な不一致や価値観の違いなど、私たちは人間関係の中に様々ないらだちを覚えることがあります。しかし、そのような不備を愛は覆うというのです。

ペテロは「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(Ⅰペテロ 4:8 )と言います。確かにここで使われている「覆う」という言葉は同じ動詞ではありませんが、同じ概念が紹介されています。相手の非に対して、相手を信頼し、相手に希望を持ち、忍耐を持って接するとき[1]、私たちはどのような人物に対しても、愛の姿にふさわしい態度で接することができるようになるのです。

同時にパウロはこの動詞を別の箇所で「忍耐する」という意味で用います。たとえば、テサロニケの人たちが信仰のゆえに迫害を受けていることをパウロががまんすることができず(「覆い」を掛けていることができず)、テモテを送ることにしたことがⅠテサロニケ3:1に記されています。これはパウロが長い期間がまんしてきた様子を顕著に示しているのです。

私たちは「性格の不一致」といった言葉を使って、愛の実践の欠如を正当化しようとします。「生理的に受け入れられない」のではなく、愛をもって覆い続ける(がまんする)ことをしていないのです。どうのような状況においても、聖書的愛はすべてを覆い、もっとも苦手とするような人物とも喜んで愛を実践しようとするのです。

愛はすべてを信じる

この節で使われている「すべて」という言葉は、あくまでも誇張であることを理解した上で「すべてを信じる」ということを理解しなければなりません。なぜなら、もしこれを字義的に捉えて「ありとあらゆることを信じる」と理解するならば、あらゆる間違った教えも信じなければならなくなるからです。つまり聖書的愛の実践は「黒を白である」ということでも「白が黒である」と信じることでもないのです。

ここでパウロが言う「すべてを信じる」とは、疑いを持って相手を見ないことを表しています。「もし間違うならば、信頼しすぎているがゆえに裏切られる方を選ぶ」というのが愛の特徴なのです。私たちが人と接するときにありがちな態度は、信頼を持つことではなく、疑いを持つことです。しかし有罪が確定するまでは、その人の言葉と行動を信頼することが愛の姿であるのです。

ただ、ここで私たちが注意すべきなのは、盲目にすべてを信じることをパウロが教えているのではないということです。真理を喜び、不義を喜ばない愛は、語られていることや行われていることの信憑性をしっかりと吟味しようとします。罪や悪がはっきりと証明されるまでは信じることを努めるのが愛ですが、同時に清さや正しさが証明されるように努めるのも愛の勤めなのです。

愛はすべてを期待する

「期待する」と訳されている言葉は「希望する」または「待ち望む」と訳されることのある言葉です。これは2番目の「すべてを信じる」ことと深い関係があります。語られること、行われること、その態度、心の状態が正しいものであると信じようとするがゆえに、愛はそこで最善がなされることを期待し、神の恵みのゆえにすべての疑いが消え去ることを待ち望むのです。

愛は神の恵みの有効性を信じています。神の恵みが働いている限り、そこには成長があり、変化が起こることを知っているのです。確かに今は罪が勝利しているかもしれませんが、いつの日か必ず神の義がすべてを治めるときが来るのを知っているがゆえに、希望を捨てることがないのです。それ故に、現在の状態が完全なものでなかったとしても、たとえそこに裏切りや落胆があったとしても、未来を見つめて希望を持つのです。このような希望がある時に、人は信頼をより持とうします。信頼を持つと、より希望が強まるのです。

愛はすべてを耐え忍ぶ

4番目のまとめは、一番目に登場した「覆う」ということと深い関係があります。「がまんすること」と「耐え忍ぶこと」は同じことのように思えるかもしれませんが、この4番目の動詞は、「覆う」という動詞とは大きく違います。この動詞は、軍隊用語として用いられていた言葉で、敵の激しい攻撃下を耐え忍ぶことを表します。「下に」という前置詞と、「とどまる」という動詞の合成語であるこの言葉は、あらゆる困難な状況の下にとどまり続ける忍耐を示す言葉として使われているのです。

「覆う」という動詞は、いらだちを覚える事柄、または様々な困難全般に対する忍耐に言及していましたが、この言葉は具体的な迫害や艱難を指しています。このような艱難は消極的な態度で乗り切ることができるようなものではないのです。たとえどのような問題が眼前にあろうとも、堅く立って前進していく姿がそこにはあるのです。

このような忍耐は、キリストの再臨にあって、すべての報いが正しく与えられるという希望に目を向けている人物に見ることができるものです。いつの日か必ず王である主キリストが、敵を打ち破り、忍耐に報いてくださることを確信しているがゆえに持つことができる、勝利を信頼しているがゆえにある忍耐なのです。

最初に挙げた「愛は寛容です」というパウロの言葉は、「愛はすべてをがまんし、すべてを耐え忍びます」という言葉で完結を迎えます。苦しみを与える人に対して忍耐を持つ愛(寛容)は、あらゆる状況、あらゆる迫害自体にも耐え忍ぶものなのです。パウロは迫害者に対しても、迫害に対しても忍耐を持つように勧めます。「愛がそのことをさせるのだ」と言うのです。未来を見つめるがゆえに、愛を持って今をしっかりと生きることが、クリスチャンに科せられた使命なのです。

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[1] これらはすべて7節に記されている愛の特徴です。