愛は「親切」で「礼儀に反すること」をしません。「人のした悪を思わず」かえって人の悪に「寛容」であることをパウロは告げてきました。しかし、このように礼儀正しく忍耐強い愛であっても、決して喜ばないものがあることをパウロは教えます。6節に出てくる二つの特徴は、喜びに関する事柄です。愛が何に対して喜びをもつのかをパウロは示しています。二つのことを対比することでパウロは愛が何を求めるものなのかを明確にしているのです。

愛は不正を喜ばない

最初にパウロが挙げることは、愛が不正を喜ばないということです。この「不正」という言葉は、正確には「義」という言葉に否定を表す接頭辞が付けられている言葉で、神の義の反対を表す言葉として使われています。

この世は不正によってもたらされる成功に満足を見いだします。しかし聖書的愛のあるところでは、不正が喜ばれることはないのです。たとえ不正の結果が人間的に喜ばしいものであったとしても、愛はその結果を喜ぶことをせず、むしろそのことに嘆くのです。人の失敗や、敵の失墜に喜びを見いだす人はたくさんいます。しかし、それが神の義に反する事柄であるならば、愛はそこに喜びを見いだすことができないのです。

パウロは人が神を知ろうとしたがらないゆえに、人が良くない思いに引き渡された様子をローマ1章で記しています。そこでは次のような言葉が書かれています。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。(
ローマ1:28-32)

人は自らが悪を行うだけでなく、このようなことを行う人たちに「心から同意している」のですが、救いを得、聖書的愛を身につけるようになった人たちは、単にこのような行為を行わないだけでなく、それらに喜びを見いだすことができなくなったのです。なぜなら愛を持つ人は神の義が損なわれた瞬間からそこに不快感を持ち、そこにとどまりたいと願わない者となっているからです。「不義」が愛にとって喜びの土台となることは決してありません。なぜなら愛は常に神の義の側に立ち続けるからです。

愛は真理と共に喜ぶ

「不正を喜ばない」と対になることとしてパウロは「真理を喜びます。」と告げます。しかし、ここでパウロが教えていることは、単に真理を喜ぶことではないことを私たちは知らなければなりません。日本語の訳は真理が目的語となっていますが、原文ではニュアンスの違う表現が使われています。実はここでパウロが教えていることは、「[愛は]真理と共に喜ぶ」ということなのです[1]。

この「真理」は単なる「正しいこと」ではなく、パウロの書簡でたびたび説明されるように、福音を構成する真理の教え全般を指しています[2]。不正は聖書の真理の歪曲です。それ故に、たとえどれだけ人間的に正しいことに見えたとしても、真理がゆがめられているところに愛は喜びを見いだすことができません。なぜなら愛は常に神の真理との調和を保ち、共に喜び、共に悲しんでいるからです。

「愛」という名の下に、すべての真理を横に置き去って共に集うことはできません。みことばの真理に対する妥協は、真の愛の姿ではないのです。それ故に愛は不義を受け入れず、真理に反することを教える人々に対して、厳しい態度で接するのです。

この箇所で愛が擬人化されているのと同様に、ここでは真理が擬人化されて、愛と共に喜ぶ姿が記されています。愛と真理は姉妹であり、同じ視点で物事を見つめ、同じ事柄に喜びを見いだすのです。聖書的愛のあるところには、聖書の真理が存在するのです。

 

教会の中では「真理」よりも「愛」を重要視する傾向があります。罪が犯されているときに「愛」という言葉の下に罪を放置し、戒めることを疎むことが多々あります。しかし真の愛は真理が曲げられたり、犯されたりすることを黙認することはないのです。愛は決して人の悪を思い続けることはしません。しかし真理に反することがあるときにそれを容認したり放置したりすることは愛の姿ではないのです。神の真理と愛を正しく知っている者は「愛をもって真理をし」[3]、「真理とともに愛する」ことが求められています。愛のない真理も真理に基づかない愛も、どちらも主が喜ぶものではないからです。

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[1] 邦訳されている聖書は「喜ぶ」という一つの動詞を6節で二度使っていますが、原文ではここで二種類の動詞が使われています。また前半部分は「不正」という言葉の前に前置詞が置かれていますが、後半にはその前置詞が登場しません。これらはわずかな違いですが、この表現の違いに翻訳では伝えきれない意味合いを見て取ることができます。前半部分は前置詞があることによって、特に「他人の不義の行為」に焦点が当たっていることが分かります。つまり、ほかの人々がなす不義を喜ばないことが言われているのです。それに対して後半部分は、前半に登場する「喜ぶ」という動詞に「〜と共に」という接頭辞が付いた動詞が使われています。前置詞がないので誰かの義の行為の話をしているのではなく、「真理」とともに喜ぶことに焦点が当たっています。それで文語訳聖書では後半部分を「眞理の喜ぶところを喜び」と訳しています。

[2] 確かにここで「不正」の反義語として「真理」を具体的で実践的な正しいことと捉えることも可能ですが、「共に喜ぶ」という動詞につながり、具格(ここでは結合の具格という人間間の結びつきを表す名詞の格)が使われていることからも、真理全般を指していると捉えるべきです。パウロが多くの箇所で、「真理」という言葉をこの意味で使っていることも、この見解をサポートしています(ガラテヤ5:7; エペソ1:13; コロサイ1:5; Ⅱテサロニケ2:12-13)。

[3] 邦訳されている聖書はエペソ4:15を「・・・真理を語り」と訳していますが、原文では「語る」という動詞は使われていません。実は「真理」という単語が動詞として使われています。つまりエペソ4:15は「真理を語る」ことだけではなく「愛をもって真理する」ことを教えているのです。