一般的に「愛」は目に見えないもののように捉えられていますが、クリスチャンにとって「愛」とは漠然とした概念ではありません。愛は具体的なものです。使徒ヨハネは次のように記します。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:9–10)

この愛は私たちが生まれながらにもっている愛ではありません。ヨハネは続けてこう言います。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)

つまり神が御子を遣わし、キリストが「私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになる」(Ⅰヨハネ3:16)ことによって愛が示され、この愛を私たちが信じる信仰によって受ける時に、初めて愛することができる者になるのです。そして聖書は「神の示す愛」をもって、互いに愛し合うことを私たちに命じています。

パウロはこの愛が「寛容」で「親切」で「ねたまず」「自慢せず」「高慢にならず」礼儀に反することをしない」ものであることを教えてきました。今回はこれらに加えて、さらに3つの「愛する人の姿」を考えていきましょう。

愛は自分の利益を求めない

人が生まれながらに持っている愛は、自分の利益を追求する愛です。人の愛とは、自分の利益に基づいて計られています。自分にとってプラスになるものは愛情の対象になりますが、もし有益さがなくなるならば、愛情も消えてしまうのが人の愛なのです。それに対して、聖書的愛は自分の利益を追求しないものであるとパウロは言います。

ここで使われている「求める」という動詞は、実際の行動を伴う追求を指すときに多く用いられる言葉です。ユダがイエスを裏切る機会をねらっていたことがマタイ26:16に記されていますが、そこでこの「求める」という言葉が使われています。銀貨30枚を祭司長たちから受け取ったユダは、そのときから具体的にイエスを引き渡す機会を探し求めていたのです。

聖書的愛は、自分自身の事柄をねらい求めるものではありません。このことはパウロがコリントの人たちに対して繰り返し語ってきたことでもあります。この手紙の8章から10章の最大の関心事は他の人の徳を高めることです。そして、これらの章のハイライト言えるのは、次のパウロの言葉でしょう。

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。 (Ⅰコリント10:23–24)

クリスチャンは自分の自由を主張して自分の願うことを行うのではなく、相手の徳を高めることを最大の関心事として自分の自由を制限するべきことをパウロは教えています。このような生き方こそがパウロ自身が実践していたことなのです(Ⅰコリント10:33)。また、このことは御霊の賜物を用いることに関しても適用されています。コリントの人たちは教会の徳を高めるために与えられている賜物を自分の利得のために使っていました。それでパウロは「あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」(Ⅰコリント14:12b)と言って、そのような間違った態度を改めるように命じているのです[1]。

自分の利益を求めること、自己建徳を目的とすることは自己中心と同じことです。たとえそれが霊的賜物を用いることであったとしても「愛がないなら、何の値打ちもありません」(Ⅰコリント13:2d)。聖書的な愛は、自らの利益よりも人の利益を追い求めるものなのです。

愛は怒らない

すでに見たように愛は寛容であり、親切です。それ故に愛は怒りを持ちません。ここで使われいる動詞は「いらだつ」または「立腹する」といった意味の動詞です。コリントの教会ではこのようないらだちや憤りのゆえに、教会員間で訴訟が起こっていました(Ⅰコリント6:1-6)。人間関係の中で起こる様々な出来事によって、恨みの思いを抱き、憎しみに支配され、怒りをもって相手に接するがゆえに望ましくない結果をもたらすことは、愛のなす事ではないとパウロは教えているのです。

確かに正しい怒りも存在します。アテネの町で町中に並んでいる偶像を見たパウロの憤りをルカは、ここで使われている動詞と同じ動詞を使って表現しています(使徒17:16)。しかしパウロがここで教えていることはそのような正しい怒りでないことは明らかです。いろいろな出来事の中で、いらだちを覚えることはたくさんあります。パウロ自身もじっさいにこのようないらだちのゆえに苦い経験をしたことが使徒の働きには記されています(使徒 15:39)[2]。

いやなことをされると私たちはいやな思いに満ちてしまいます。怒りの念をあらわにし、それを態度や言動を通して具体的に相手に向けることがあります。しかし、それは聖書的な愛の姿とはかけ離れたものなのです。

愛は人のした悪を思わない

怒りを抱き続ける一つの理由は、私たちがなされた悪を思い続けることにあります。いつまでも受けた悪を許せないと感じて恨みを持ち続けるという悲しい性質を人は持っているのです。パウロはここで会計士が、帳簿に収支を記録する姿を持ち出しています。会計士が収支を帳簿に記していくことと、人がした悪を記録している姿を重ね合わせているのです。しかし、聖書的愛はそのような簿記をしないことを告げています。自分が害を被るときにその記録を付け続けることをしないというのです。

私たちがそのような記録を心に刻んで残し続けるのは、いつか報復の時が来るときにふさわしい報いを与えようと考えるからです。しかし愛はそのような恨みを積み上げることをせず、悪意を蓄えることをしないのです。神が正しく報いてくださることを知っているがゆえに、クリスチャンは自らの手で復讐をすることを考えません(ローマ12:19)。悪の記録を残さない愛は、常に他の人を色眼鏡で見ることしません。過去にさかのぼって苦々しい思いを相手にぶつけるような人間関係を持たないのです。愛は過ちが起こったときにその問題を解決していきます。過ちを犯した人を赦し、それらを後ろに置いて、引きづり続けることをしないのです。

上記のような愛は、神の愛を知らない人に実践することはできない愛です。内在する聖霊の働きなしにはこのような愛を私たちの生涯に見いだすことはできません。私たちは自分の好みの人だけを愛するように命じられているのではありません。私たちの敵をも愛するように求められています。たとえ自分の苦手な人であっても、自分に害を与える人であっても、相手の徳を高めるためにその人の益となることを願い行うのがクリスチャンが実践すべき愛です。このような愛が教会ではっきりと見られるときに、私たちはそこに神に愛されている人々の集まりを見ることができるでしょう。

 

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[1] 14:4では「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言をする者は教会の徳を高めます。」と記されています。つまり、14章でパウロが預言の賜物を求めるように勧める最大の理由は、自分の利益を求めず教会の利益を追求する愛の実践をコリントの教会の求めているからと言えるのです。

[2] バルナバとの間に起こった「激しい反目」(同じ語源の名詞が使われています)は、誰を連れて行くべきなのかという問題の中で起こったいらだちであり、それによって働きが分かれてしまったのです。