神の愛を知ることなく、神が愛したように人を愛することはできません。生まれながらの人間が持っている愛は、神が私たちに求める愛とは根本的に異なるものだからです。しかし、キリスト・イエスを信じる信仰によって神の愛を受けた者は、この神の愛をもって人を愛する者へと変わっていきます。永遠のいのちを持っている者はこの神の愛で愛する者になったことを使徒ヨハネははっきりと告げています。

私たちは自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。(Ⅰヨハネ3:14)

さらにヨハネは次のように告げます。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。(Ⅰヨハネ4:20–5:1)

教会に属するという者が同じ主を愛する兄弟姉妹に愛を示していないならば、そこには大きな問題があることに私たちは気づかなければなりません。教会はキリストの愛で特徴付けられる集まりであるはずだからです。パウロはこの愛がどのようなものであるのかを私たちに分かりやすく解説してくれます。その解説がコリント第一の手紙13章に記されているのです。

「愛は寛容であり、愛は親切です。」と告げて、パウロは愛に関する受動的および積極的態度を書き記しました。ここからパウロは8つの否定的表現(「〜ではない」)を通して、愛の姿をより具体的な形で提示していきます。今回はこれら8つの否定的説明の最初の4つを見ていきます。

愛はねたまない

否定的表現の最初に記されるのが「ねたみ」に関することです。ここで使われている「ねたむ」という言葉は、12:31や14:1でも使われている言葉で、それらの箇所から読み取ることができるように常に悪い意味で使われているわけではありません。この動詞の根源にある意味は「沸騰する」というもので、心の内にわき上がる熱情を指しています。このような熱い思いは正しい目的に対して持つことができるのです。ですから同じ言葉の名詞形が「熱意」(Ⅱコリント7:11)や「熱心」(ヨハネ2:17)と訳され、パウロ自身も「私は神の熱心を持って、熱心にあなたがたのことを思っています。」(Ⅱコリント11:2)と言うのです。

しかし、4節のこの言葉は明らかに否定的な意味合いで使われています。利己的な熱意、ねたみや、そのような思いからわき上がる憎しみまでこの言葉は包括します。「あなたの持っているものを私のものにしたい」という願望から「あなたの持っているものが欲しくてしょうがないから、あなたがそれを持っていなければいいのに」と苦々しく思い、さらに「あなたの持っているものが欲しくてしょうがないから、なんとしてでもそれを奪ってやる」という思いに至るまで、すべてがこの言葉に要約されているのです。

コリントの教会では、よりすぐれた賜物を持つ人が教会で働きをすることを熱心に求めるように勧められていますが、コリントの人たちは自分がよりすぐれた者になりたくて、他の人の持つ賜物をねたみのうちに切望していました。その姿は愛の姿とはかけ離れたものだったのです。彼らには利己的な切望から離れ、他の人の最善を求めるようになることが必要でした。たとえどれだけ優れた賜物を持ったとしても、愛がないなら何の値打ちもなく(13:2)何の役にも立たないのです(13:3)。同様に、私たちも利己的な切望が聖書的愛とは相容れぬものであることをしっかりと理解する必要があります。自分たちの願うものを他の人が得ているときに、私たちはねたみに駆られることがあります。自分が得ていないことを嘆き、他の人が得ていることに憤り、どうにかしてその人の幸いを妨害したいという醜い思いを持つことすらあります。しかし、このような思いは聖書的愛の姿ではなく、私たちクリスチャンが持つべき態度ではないのです[1]。

愛は自慢しない

ねたまない愛は、同時に自慢しません。この「自慢する」という言葉は、新約聖書で一度しか使われない言葉で、「自らを誇示する」、「人に見せびらかす」、「ほめあげる」といった意味の動詞です。自分の能力や功績を見せびらかせて、人からの称賛を得ようとする行為全般がこの言葉に含まれています。ライバル心を持って他の人と競争し、自らの栄達のために奔走している姿がここで現されているのです。

コリントの教会ではこのことが問題となっていました。自分の力を誇示しようとするあまり、他の人のことを踏みにじってまで示そうとし、教会の中には混乱が生じていたのです。パウロはこの状態を次のように説明します。

あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。 (Ⅰコリント14:26)

コリントの教会は、みなが自分の言いたいことを言わなければ気が済まない教会だったので、集まるとそれぞれが自分の賜物を用いようと競争が起こっていたのです。礼拝には秩序がなく、混乱が起こり、人々は教会で徳を高められることがなくなってしまっていたのです。聖書的愛はこのような自己顕示欲に満ちたものではありません。このような見せびらかしの精神は、相手の徳を高めることを何よりも願う聖書的愛の姿とはかけ離れたものなのです。

愛は高慢にならない

外面的な自慢は、うちにある高慢の表れです。それ故にこの言葉が自慢の次に出てくるのは当然のことのようにも思えます。ここで使われている言葉は「ふくれあがる」という意味の動詞が語源になっていて、人が慢心している様子を表す言葉として用いられています。ふくれあがった風船のように、中身は空気しか入っていないにもかかわらず、図々しいまでに自己満足しているその姿がここで示されているのです。「私は他の人よりも優れている」といった思いや「もっと良い待遇を受けてしかるべきだ」という考えを持つとき、人は高慢によってふくれあがっているのです。

パウロはここで、はっきりとコリントの人たちが愛のない人であることを宣言しています。なぜなら、パウロはこれまでに、彼らが高慢な人物であることを告げてきたからです(Ⅰコリント4:18; 5:2)。高慢な人物は聖書的愛を実践することはできません。高慢な人は自分の受けるべきことだけを考え、他の人のためになることを考えることをしないのです。仕えるのではなく仕えられることを願い、与えるのではなく与えられることを願うのです。このような高慢の反対にある謙遜こそが愛の姿です。へりくだりの心とそれに基づく行動こそが聖書的愛が実践されるところで見ることができるものなのです[2]。

愛は礼儀に反することをしない

パウロが次に挙げるのは、「礼儀に反することをしない」ということです。ここで使われている動詞は、Ⅰコリント7:36では「扱い方が正しくない」と訳されています。この動詞を直訳すると、「不作法でない」、「見苦しくない」、「下品でない」といったものになります。ふさわしくない行動や態度をとることがないというのです[3]。道徳的な行動において、愛は適切で、見栄えよく、礼儀にかなったことをするのです。

愛は常に、対象が誰であったとしても礼儀正しい態度で接しようとします。地位の高い人であったとしても、低い人であったとしても、友人であったとしても、敵であったとしても、愛のあるところには、礼儀正しさがあるのです。不作法で荒々しく、人に不快感を与えることを愛は好みません。どのように人と接するのかという非常に細かい部分においても、愛の姿は顕著に見ることができるのです。

神はみことばを通して具体的に愛のある人がどのような人物なのかを示してくださっています。私たちはクリスチャンとしてどのように人を愛しているのかを考えなければなりません。神を愛する者として、愛を示す生涯を歩むことこそが真の信仰者の生き方だからです。

 

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[1] このような態度は、非常に危険な態度であることをヤコブは「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(ヤコブ3:16)と言って教えています。

[2] イエスが示した模範はまさにこの愛の模範でした。ピリピ2章に記されていることや、ヨハネ13章で起こった出来事を見ると、聖書的愛の実践は、高慢な人物には不可能であることがよく分かります。

[3] この動詞の正反対の概念を表す言葉が「適切」と訳されています(Ⅰコリント14:40)。