たとえどんなすばらしい霊的な賜物であっても、愛がなくては何の益にもならないことをパウロはコリント第一の手紙13章で教えています。聖書が教える愛とは単なる感情や概念ではありません。具体的な形で私たちの生活に見て取ることができるものです。パウロはその姿を私たちに提示してくれるのです。クリスチャンが持つべき愛とはどのようなものでしょう。パウロの言葉に耳を傾けていきましょう。

愛は寛容である

パウロが愛を考えたときに最初に挙げたことは、「寛容である」ということです。新改訳聖書ではここで状態動詞(「〜である」)が使われているように訳されていますが、実際には動的な動詞(「〜する」)が使われています。つまり、パウロはここで、愛がどのようなものなのかを定義しているのではなく、愛が何をするのかを説明しているのです。また、「寛容」という言葉を辞書で引くと、「(1)寛大で、よく人をゆるし受けいれること。咎めだてしないこと。(2)他人の罪過をきびしく責めないというキリスト教の重要な徳目。(3)異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと。」といった定義が出てきます[1]。しかし、この訳は、この言葉の持っている意味を十分に表現し切れてはいません。
ここで使われている動詞は「マクロスメオー」というギリシャ語です。「長い」という意味の形容詞と「怒る」という動詞が組み合わされて構成されているこの動詞は[2]、長い期間、怒りの感情に支配されて行動をとることがない状態を意味しています。復讐心を持たずに危害を受け入れる気質を現しているのです。たとえ、誰かが肉体的、精神的危害を加えてきたとしても、聖書的愛を実践している人物は、怒ることなく、復讐心に燃えることなく、感情をしっかりとコントロールする人物なのです。つまり聖書的な愛は、長い間苦しみを受けても怒りを持つのではなく、忍耐をもって行動するのです。
このような愛は人間の性質に反しています。人の心は、受けた危害に対していかに報いようかと考えるのに早いのです。私たちには我慢の限界があり、「堪忍袋の緒が切れる」ことが日常茶飯事なのです。しかし、神の愛を知り、神が命じる愛を実践しようと心から願い、御霊の実である愛を実らせてい生きる真のクリスチャンは、「もうこれ以上我慢できない」とは言わないのです。その忍耐に限界がないのです。
もし、神の愛が私たちの愛の模範であるとするのなら、ほかの人々に対する私たちの愛は無限に忍耐強いものでなくてはなりません。主は私たちを見て、「もう堪忍袋の緒が切れた!」とは決して言いません[3]。それゆえに、私たちが他の人と接する時にこの愛を働かせるならば、たとえ相手が私たちを批難し、攻撃し、傷つけたとしても、私たちが願うことをすることがなかったとしても、忍耐強い愛をもって、怒ることなく接することでしょう。なぜなら「愛は長く苦しむ」ことを厭わないものだからです。

愛は親切である

愛は、「寛容である」だけではありません。「愛は親切である」とパウロは続けます。パウロはここでも状態動詞を使わず、「親切を現す。」という動詞を用いて、愛の特徴を説明しています。 この「親切」という言葉は「役に立つ」という語から派生した動詞です。そしてここで語られている概念は、相手の最善のために自らを役に立たせるということです。「あなたのためになるならば、あなたのおっしゃるとおりにしましょう。」という積極的な行動をもたらすことを指しているのです。
パウロはこの最初の二つの言葉(寛容と親切)をほかの箇所でもペアで使っています(Ⅱコリント6:6; ガラテヤ5:22; コロサイ3:12)。なぜならばこれらの言葉は、実際に対をなす言葉であるからです。前述の「寛容」は、どのように相手からの行為を受け止めるべきなのかという受動的なことを現していましたが、この「親切」は、どのように相手に対して行動するのかという能動的なことを現しているのです。
人を愛さないときにの顕著な特徴は相手の役に立とうとすることの欠落です。親切な行動は愛の欠けたところに現れないものです。誰かに対して苦々しい思いを持つとき、私たちは親切であることをやめます。相手のためになることを積極的にしようと考えることを放棄します。しかし聖書的愛が実践されているとき、相手がどのような人物であったとしても、その人の益となることのために、私たちは親切に、役立つことを行っていくのです。
聖書的愛は、寛容であるがゆえに相手の攻撃を忍耐を持って受け止め、親切であるがゆえに相手のために相手が求めること以上のことを喜んで行おうとします。これこそ神が私たちに示してくださった愛です。主は忍耐深く接してくださっただけでなく、親切に、自らの権利を放棄してまで 私たちにとってもっとも有益なことをなしてくださいました。それが聖書の教える愛の姿なのです。

[続く]

 
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[1] 広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店
[2] 「スーモス」という動詞は、マタイ2:16で東方の博士たちが逃げたのを知ったヘロデ王がベツレヘム近隣に住んでいた二歳以下の男子を虐殺することになったきっかけの怒りを表す言葉として使われています。
[3] ローマ2:4; 9:22; Ⅱペテロ3:9などは神のこの忍耐深さ(寛容さ)をはっきりと示しています。