愛のある風景

聖書的な愛を実践することは、私たちにとって容易なことではありません。それは、私たちがこれまで経験してきた愛と、聖書が求めている愛との間にあまりにも大きな違いがあるからです。 日常の生活の中で私たちが見聞きしている愛は、私たちのうちから出てきたもので、利己的で、自己完結的な愛です。しかし聖書が実践しなさいと命じている愛は、私たちから出たものではなく、神から発したもので、聖霊の実として私たちの生涯に実るものなのです(ガラテヤ 5:22)。
聖書がはっきりと私たちに教えることは、救いのないところに神が喜ぶ 愛に満ちた人間関係はないということです。神の愛を知らない人は、神の愛で人を愛することは できません。聖霊の実として実る愛を、聖霊の内住のない人の生涯に見ることはできないのです。しかしクリスチャンであれば誰でも愛に満ちた人間関係を築いているというわけではありません。ですから聖書は私たちに愛を追い求めるように命じているのです(Iコリント14:1; I テモテ6:11; IIテモテ2:22)。
聖書は様々な形でどのように愛するべきなのかを私たちに教えています。その中でももっとも具体的に愛の姿を描き出してくれているのが第一コリント13章でしょう。そこで「愛の章」と呼ばれることも多いこの章を通して、人間関係における愛のある風景を考えてみましょう。

完全なる愛の姿

確かに多くのクリスチャンがIコリント13:4-8aを愛し、暗唱し、「これが愛の定義である」と考えています。しかし残念なことにあまりにも多くの場合に、パウロがここでもっとも言わんとしていることを無視してこの章が理解されているというのが現状です。文章には必ず文脈があります。その文脈を抜きに正しい理解をすることはできません。この章でパウロがもっとも伝えたいことは愛とは何かということではありません。パウロの最大の関心事は、御霊の賜物の正しい実践ということなのです。
13章が、御霊の賜物とその用い方に関することに触れている12章と14章の間に置かれているのは偶然ではありません。パウロは意図的にこのような構成で手紙を記したのです。コリントの教会員たちは御霊の賜物に魅了され、自分たちの賜物を競い合うような状態にありました。同時にコリントの町で行われていた異教の風習が霊的賜物として教会の中に持ち込まれ、教会の中に様々な混乱を引き起こしていたのです。それ故にパウロはこれらの章ではっきりと御霊の賜物がどのようなものなのかを教え、真理に基づいて賜物を用いていかなけ ればならないことを教えていくのです。
パウロは、御霊の賜物(またはそれを用いる人物)について語るに当たって「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。」(Iコリント12:14)という非常に大切なことを教えています。一つの聖霊から賜物が与えられるのですが、「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられている」(Iコリント12:7)と言うのです。それで、すべての賜物が重要であり、様々な賜物は「各部分が互いにいたわり合うため」(Iコリント 12:25b)に存在していることが告げられています。28節でパウロは賜物のリストをあげ、ひと りひとりに異なる賜物が与えられていることを強調します(12:29-30)。そして、教会に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」(12:31a)という命令を与えるのです[1]。「よりすぐれた賜物」とは、14章で教えられるように預言の賜物を指しています(14:1b)。なぜなら預言 の賜物は、主からの啓示を人々に伝えることによって教会の成長を促すからです。
しかしパウロはここで、コリント教会の問題の根源に話を展開します。彼らの問題は、単に間違った賜物を間違った態度と方法で求めていたことではなく、御霊の実を持たずに御霊の賜物だけを追求しているところにあったのです。確かに霊的賜物が正しく用いられることは重要なことですが、それ以上に重要なことがあるとパウロは言うのです。それが13章で教えられている愛です。愛を持たずに賜物だけを追求したとしても、それは何の益にもならないことをパウロは13章で教えています。最初の3節でパウロは愛のない賜物の行使が意味のないものであることを宣言します。そして4節から7節で、どのような態度で賜物を用いることが御霊の実を結びつつ、賜物を用いることであるのかを教えるのです。ここでパウロが語る事柄は愛の定義ではありません。むしろ愛の具体例です。愛がどのようなものであるのか、それを具体的に知ることができるのです。これらの愛の具体例は、賜物を用いるときにあるべき姿として教えられているだけでなく、クリスチャンが持つべき愛の特徴という広い適用をすることができます。この説明は愛という御霊の実に関する説明でもあるからです。
パウロは15の具体例を挙げています。それら一つ一つを考えることを通して、私たちが人間関係 において持つべき愛の姿というのを考えていきましょう 。

[続く]

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[1] パウロがここで「あなたがたは」という主語を使いますが、これは明らかに個人個人のことを指している言葉ではあ りません。もしそうならば、12章で語ってきたことに反することを求めていることになります。賜物は、個人が一生懸 命求めることによって得ることができるものではなく、聖霊が「みこころのままに」与えるのであり( 12:11)、神が備 えてくださるものなのです(12:18)。事実、どれだけ個人が願ったとしても、使徒の賜物を得ることはできません。な ぜなら、使徒の賜物には条件が付随しているからです。それゆえ、「あなたがた」は教会全体を指している言葉であると 理解するべきです。教会は、よりすぐれた賜物(28節の上位に出てくる賜物)を求めることが命じられているのです。こ れらの賜物が教会においてその働きをなすとき、教会の徳が高められ、教会の成長が促されることが14章で教えられて いるのです。