多くの人たちが天国に行く確信を持ちながら「滅びに至る」大きな門から入っていく中で、イエスは自らが示す「狭い門」から入りなさいと命じます。この狭い門がどのような門なのかを私たちが正しく理解できるように、主は私たちにその説明を与えるのです。

マタイ7:13-14でもっとも驚くべき教えは、14節に記されています。ここで私たちはイエスの嘆きを感じ取ることが出来ます。しかし、残念ながらこの嘆きを感じる部分を新改訳聖書は訳してくれていません。原文では、14節の冒頭に「いかに」または「なんと」という感嘆符がつけられています[1]。つまり、イエスはここで、「なんと門は狭く、道は窮屈なのでしょう!」と言っているのです。多くの人が入っていく大きな門に比べ、イエスが弟子たちに入るように命じている門はあまりにも狭く、その道は窮屈な細い道なのです。

イエスが語ってきた山上の説教は、まさにこのような狭い門を示す内容のメッセージでした。天国に属する人物がどのような特徴を持っているのか、彼らの責任とはどのようなものかということをイエスはメッセージの冒頭で説明しました。そこで語られていることは、ユダヤ人の「天国民観」を大きく揺るがすものでした。またこの説教の中で天の御国に入るために必要な義を示すに当たって、イエスは旧約聖書が教えていたことを通して「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と命じました。天の父からの報いを受けるために生きて行くこと、そのために神にのみ専心し、隣人を愛する人生を歩むように命じたのです。これがイエスが示した律法学者やパリサイ人の義にまさる、天の御国に入ることが出来る義です。このような歩みが真の天国民が生きる生き方なのです。まさにこれ以上に狭い門はないでしょう。いったい誰がこの門から入ることが出来るのでしょう。

それだけではありません。この門を通った者は、「窮屈な道」を歩むのです。ここで使われている道を形容する言葉は、単に狭いことを告げるだけでなく、圧縮された状態を指しています。つまり、幅広い道とは反対の道をこれ以上ない形で現そうとしているのです。この道を通ることは困難が伴います。門のところで説明したように、この窮屈な道も、余計な荷物を持って歩んでいくことが出来るものではないのです。もう一方の道が、幅広く自由に歩んでいくことが出来る道であるならば、なおさら、いったい誰がこの道を好んで進んでいくのでしょう。

イエスの嘆きはまさにここにあります。確かに門は狭く、道は窮屈です。しかし、この道こそがいのちに通じる道なのです。天の御国へ入るために、この道を通っていく必要があるのです。けれどもイエスが知っていた事実は、この道を見つける者が少ないということです。この道を見いだす者はまれなのです。

ルカはエルサレムへの旅を続けていたイエスにある人が「主よ。救われる者は少ないのですか。」(ルカ13:23)と尋ねる場面を記録しています。そこでイエスは山上の説教で語っていることと非常に似たことを教えています。イエスは次のように言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。     ルカ13:24

この努力してという言葉は苦闘するという意味を持っています。この単語は、競技者が苦しいほどの努力をして勝利を得ようとしている姿を表現するために使われていた言葉です。この言葉がここに加えられているのは非常に重要な意味を持っています。確かに狭い門を見いだす者はまれです。しかし、見いだす者はいるのです。では彼らはどうやって見いだすのでしょう。それは、彼らがこの門をあらゆる努力を持って、探し求めるからです。旧約聖書はこのことを次のように語っています。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、私はあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。          エレミヤ29:12-14a

パウロは「もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。」(使徒17:27)と言って、エレミヤと同じことをアテネの人たちの前で語りました。近年のキリスト教会は、救いを得るのは簡単だといったメッセージを告げています。しかし、イエスの言葉はそのような宣言を否定するのです[2]。決して偶然この門の前に立つことはないのです。

しかし、あらゆる力をもってこの門を捜し続けたとしても、この門から入り、窮屈な道を歩んでいく決心がなければ、この門から入っていく人はやはり少ないでしょう。しかし、その決心がない者はこの門から入ることも、この道を歩むこともないのです。神の国は心を尽くしてそれを求める者たちのものです。苦しいまでの努力をして入ろうとする者のものなのです。なぜそのようにしてまで入りたいと願うかと言えば、それは、彼らが自らの不義にを知り、主の前に立つ資格のない者であることを理解し、この神に受け入れられる者になりたいと心から願うからです。

彼らの心は彼らの罪のために打ち砕かれていなければなりません。神の国は柔和な心のうちに嘆き、義に飢え渇き、そして神によって生涯を変えてもらうことを待ち望む者たちのものなのです。生き方を変えることなくイエスの与える祝福だけを望む、そんな安易な方法によって救いを得ようとしている者たちのものではないのです。私たちは眠りながら神の国に入っていくことなどできません。真剣な努力と、全精力をかけなければならないのです。

あまりにも多くの時に、私たちは「どうしたら神を受け入れることができるか」と考えます。しかし、私たちが本当に考えなければならないのは「どうしたら神に受け入れられるのか」ということです。「救いは得たいけれども、神の求めることは行いたくありません。」というならば、その人はここでイエスが求めている条件に沿った天の御国への道を歩んではいません。この道は圧縮した道であり、神が求めることを求めたくないと願う者が通ることができる幅がないのです。

イエスの言葉は私たちを決断の場に立たせます。「二つの門があります。あなたはどちらを選びますか。」とイエスは私たちに訴えているのです。天の御国に入るには、正しい決意が必要です。イエスはこのことをルカの福音書で次のように語っています。

さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その計算をしない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、他の王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:25-33)

イエスの周りには、イエスに対して好意的な人たちがたくさんいました。しかし、好意的であるだけでは十分ではないのです。「主に従うことによって生じる損失がどのようなものであったとしても、わたしは主の弟子として生きていきます。」という決意と「あなたに完全に信頼します。」という依存が、信仰の本質なのです。

弟子たちは、金持ちの青年とのやりとりの後でイエスが語った、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24)という言葉を聞いて愕然とし、「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」(マタイ19:25)と尋ねました。ひょっとすると私たちも同じ質問をここで持つかもしれません。イエスはそのような疑問に対して、回答を与えてくれています。主は言うのです。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)と。

イエスははっきりと線を引きます。すべてのものを否定し、この狭い道を歩もうとしない限り、私たちは決してキリストの弟子となることはできないのです。もし私たちが狭い道を歩むならば、覚えておかなければならないのは、神がこの道を歩む力を与えてくださっているという事です。神が私たちの生涯を変えてくださいます。主が新しい心を与えてくださるのです。私たちの力では、決してこの狭い道を歩むことはできません。しかし神は恵みのうえに恵みを与えてくださり、私たちの弱いところに主の力を注いでくださるので、この道を進んでいくことができるのです。そうやってこの道を一歩一歩進んでいく時に、私たちは主のもとへ通じている正しい道を通っていることを確信するのです。

狭い道は気軽に歩くことのできるような道ではありません。この道は心地の良い草地ではないのです。道は険しいのです。イエスは、キリスト教が心の弱い者に対する安易な選択であると教えたことはありませんでした。この狭い道を通るときに私たちは地獄に対して戦いを挑むようになるのです。そして地獄は私たちに対抗します。様々な罪との葛藤の中で私たちはこの道を歩むときに戦いつつ進んでいくのです。イエスはペテロに対して、彼が殉教することを告げた後、「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19)と命じられました。私たちも、たとえ死が私たちにもたらされたとしても、「わたしに従いなさい。」というイエスの招きに私たちも「はい」と答える必要があるのです。

たしかに、天の御国への門は狭く、その道は窮屈なものです。しかし、人間の歴史上最低最悪の罪人であったとしても、この門を通って、この道を歩むことができるのです。キリストの犠牲を通して示された神の愛は、己の罪を悔い改め、キリストに従っていく決心をしたどんなひどい罪人の罪をも、赦すことができるほど大きなものなのです。

 

人生にはたくさんの選択の時があります。しかし、それらの多くの選択の中で、どちらの門を選ぶかという選択以上に大切な選択はありません。そこでイエスは言うのです。「狭い門と大きい門、どちらから入りますか。」と。そして主は命じるのです。「たとえどれだけ大きな犠牲があったとしても、狭い門からはいりなさい。なぜなら、大きな門、滅びへと誘う道は広く、多くの人がそこから入っていくから・・・。」と。どうやって天の御国へと入るのか、イエスの示す方法は非常に厳しいものです。しかし、神によって心の貧しさに気づき、罪深さに嘆き、へりくだり、義を追い求めるその人は、キリストの弟子として、困難に見えるこの道を進みたいと願う思いを与えてくださった主への感謝に満ちて、歩み続けていくのです。

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[1] この部分は写本にばらつきのある部分で、一つのグループの写本には、14節冒頭に「なぜなら」という言葉が使われています。しかし、原文批評学者たちは、14節の冒頭に感嘆符が記されている写本のほうがオリジナルであると考えています、それがここでは適切な判断といえるでしょう。
[2] イエスは「そこからはいっていく者はまれです。」と言わず、「見いだす者はまれです。」と言いました。これは非常に興味深いことです。もちろん見いだす者が少なければ、入る人も少ないのですが、問題は見つける人が少ないというところにあるのです。それゆえに、見いだすことが求められていると言っても過言ではないでしょう。