狭い門から入る理由

どうして狭い門から入らなければならないのでしょう。その理由としてイエスがあげることは、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」ということです。前半部分を直訳すると、「なぜなら門は大きく、そして滅びに導く道は幅広いからだ」となります。つまり狭い門から入らなければならない理由は、「もう一つの門があるから」なのです。狭い門と正反対の性質を持った大きい門があるのです。多くの人が同時に通ることが出来る門です。多くの荷物を持ったまま通過することが出来るような大きな門なのです。自分の霊的貧困に気づき(マタイ5:3)、罪を悲しみ(マタイ5:4)、神の前にへりくだることをしない人たちが通ることが出来る門です。この大きな門はイエスが「はいりなさい。」と命じる門とは異質の門なのです。

イエスはただ狭い門とは反対の性質を持った大きい門があることを告げるだけではなく、「そして道は幅広い。」と宣言します。ここで語られている幅広さとは、スペースが十分にある広い道のことです。あらゆる考えを持った人が受け入れられるそんな道です。そこには多くの決まりはありません。事実、あらゆる考えがその相対性の中で受け入れられているのです。

パウロはテモテに対して、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくような時代になる・・・」(2テモテ4:3-4)ことを教えています。絶対的真理が煙たがられる今の時代はまさにこのような時代であり、これこそがイエスの語る幅広い道の生き方なのです。

もし、私たちがこの幅広い道を歩むなら、その人生は楽なものとなるでしょう。自分がルールであり、やりたいことを好きなようにすることが出来る道だからです。自分勝手に道徳の規準を作り上げ、「私は十分に基準を満たしている。」と安心することが出来るのがこの道です。「私はこんなに立派だから、間違いなく天国に行く。」と高慢になっている人たちが歩んでいるのがこの幅広い道なのです。また「私はそれほど悪くないから大丈夫。」と考えている人たちが歩むのもこの道です。この道はまさに、パリサイ人や律法学者、強いては、彼らの教えを受け入れていた者たちが歩んでいた道なのです。

ここで一つ気づいておかなければならないことがあります。それは、この大きな門と幅広い道は、多くのユダヤ人たちが歩んでいた道であったということです。パリサイ人や律法学者たちは、この大きな門を通り、広い道を歩んでいたのです。この道を歩んでいる人たちは皆、自分たちは天に向かっていると信じていました。彼らこそが天国に入ることが出来ると考えていたのです。この門には、「地獄行き」という文字は書かれていませんでした。この道には、「裁きへの道」という標識は立っていないのです。むしろ、これらは、「天国への門」と「祝福への道」というサインが掲げられています。彼らは心から、彼らの持っていた信仰の故に、天の御国に入ることが出来ると考えていたのです。

この道に関して、イエスは非常に大切な言葉を付け加えています。新改訳聖書では広い門に対して「滅びに至る」という説明がされていますが、原文では、この「滅びに至る」という言葉は「道」を説明する言葉として出てきます。つまり、多くの人が歩んでいる道は「滅びに導く道」なのです。聖書は、この道を選ぶ悲劇を、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12; 16:25)と説明しています。永遠のいのちと祝福に至ると考えて歩んでいたとしても、もし人が大きな門から入り、幅広い道を歩んでいるとするならば、その道は必ず滅びへとその人を導くのです。そして何よりも悲しいことは、この大きな門から入っていく人の数が非常に多いということです。

なぜ、狭い門から入らなければならないのでしょう。それは私たちの前には常に大きな門が置かれているからです。その門は私たちが何一つ犠牲を払わなくてもよいと言って、私たちを惑わします。その道は幅広く、私たちに窮屈さを感じさせることは決してありません。自由奔放に、思うがまま生きていくことが出来ると訴えかけるのです。そして、そこには大勢の人たちがいて、私たちを誘い続けているのです。しかし、その門を通って歩むこの道は、イエスが人々を導こうとしていた神の国に通じているのではなく、祝福とは無縁の、永遠の滅びへと人々を導いていきます。だから、イエスは切迫感の中で、「狭い門からはいりなさい。」と命じたのです。