「礼拝とは、内なる人が、態度、行動、思想、言葉を通して、啓示された神の真理により、賛美をもって、神のすべてに応答することである。」

『礼拝生活の喜び』という本の中でマッカーサー師は礼拝をこのように定義しました[1]。これは礼拝が日曜日の数時間だけに限定されたものではなく、救われている者の全生涯を通してなされなければならないものであることを私たちに知らしめます。私たちが自分勝手な思い込みに基づいて礼拝するのではなく、神が聖書を通して示してくださった真理に則して、全ての瞬間を神の求めに応じて生きることこそが礼拝なのです。
神の偉大さやすばらしさが私たちの生涯に顕著に表れるとき、人は神の栄光を現す生涯を送るようになります。神が求める態度をもって、神が喜ぶ言葉を語り、神が望む事柄を行う時に、私たちは生ける神の宮としてまさに主の栄光を讃える者として生きるようになるのです。真の礼拝者の生活は、まさに神の栄光を現す生活です。このような生き方をする時、私たちはまさに礼拝者としての人生を歩んでいるということができるのです。
神は栄光を受けるにふさわしい方です。それは神が本質的にその存在において栄光に満ちた方だからです。マッカーサー師は「神に栄光を帰するとは神の栄光を承認し、そのすばらしさを現すという意味です」と言います[2]。まことの神以外の何者も栄光を受けるにふさわしくない方であることを正しく認め、その方の神の栄光を現すために私たちが救われていることを私たちは何にも増して覚えておかなければなりません (エペソ1:6, 12, 14)。事実、私たちの存在自体が神の栄光のためであり、それ故に私たちが好んでするかしないかに関係なくすべての者は最終的には神の栄光を現すのです。
たとえ主の前に不従順な罪人であっても、彼らに対する裁きの中に神の偉大さが示され、その栄光ははっきりと現されます。しかし神が望んでおられることは、人が生涯を通して神の栄光を現し、主を正しく礼拝することなのです。存在の目的が神の栄光のためであるがゆえに、神の栄光を現すこと以上に大切なことはありません。また神の栄光以上に追い求めるべきものは何もありません。ですからパウロは「・・・食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31)と言うのです。これは単なる勧めではなく、はっきりとした命令です。このことを正しく理解するならば、自分を喜ばせるために生きるのではなく、自らを誇るために努力するのではなく、ただ神だけを讃えて生きることが私たちに求められている生活であることが分かるはずです。このような生活は、救われる前の生き方から考えるならば考えられない生涯でしょう。しかし、真に救われている者は、どんな犠牲を払っても神のすばらしさを讃えるために、神を喜ばせるために、主のみこころを行うことを求めるようになるのです。
しかし、具体的にこのような真の礼拝者としての生活を送るために私たちは何をするべきなのでしょう。どのような生涯が神の栄光を現す生涯なのでしょう。ここでその全てを検証することはできませんが、基礎的な事柄をいくつか挙げてみましょう。

罪の告白

「クリスチャンは、信じたときにすべての罪を赦されたのだから、罪の告白をする必要はない。」という教えをされる方が時におられます。しかし、罪の告白はクリスチャンが礼拝を捧げるに当たって、必要不可欠な要素であると言っても過言ではないでしょう。1ヨハネ1:9で使われる「言い表す」という言葉は、「同じことを言う」という意味を持っていて「完全な一致を表現すること」が命じられています。それゆえに、告白とは「罪に対する責任と罪の恐ろしさについて、完全に神と一致することなのです」[3]。
マッカーサー師は「罪の告白を礼拝と考えない人がよくいます。しかし礼拝なのです。罪を告白するとき、神の聖さを認め、私たちを赦してくださる神のご真実と義を経験し、神によるすべての懲らしめを受け入れ、神の栄光を現して、御前にへりくだるのです」と言います[4]。もし私たちが主の前に立って礼拝を捧げるということを正しく理解するなら、私たちは罪の告白をせずにはいられないでしょう。イザヤやペテロ、その他多くの人々が主の前に立ったときに唯一とることができた行動はひれ伏し自らの罪を認めることでした。救われた今も、罪のうちに地上での生活を行っている私たちは、礼拝を捧げようとするときに、このような罪の告白なしに礼拝を始めることはできないでしょう。

神を疑わない信仰

私たちは救いに関しては神を信じていますが、実際の生活となるとなかなか神を信頼することをしない傾向があります。しかし真の礼拝者の生活は神を徹底的に信頼する信仰にあふれたものなのです。ローマ4:20の「彼(アブラハム)は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し・・・」という言葉は、真の礼拝者の姿を顕著に現しています。神は完全に信頼することができる真実で誠実な方であることをみことばは教えています。そしてクリスチャンはそれを知っているはずです。しかし、私たちの多くは神に疑いを持った生活を送ることがあるのです。マッカーサー師は「どういうわけか私たちは、疑いや思いわずらいを『小さな罪』と考えます。しかしクリスチャンが、不信仰や心配、生活の中でうまく対処できないことがあるというなら、『私の神は、本当は信頼できない』と言っているのです。そして、そのような無礼は、その人に根本的な違反—神の栄誉を汚す極悪な罪—を犯させることになります。それが小さな罪だとは!」と厳しい警告を発しています[5]。
神が約束されたことを信じることができないとするならば、私たちは確かに神を偽り者と定めています。そのような態度で神の御前に現れ、礼拝を捧げようとしても、神はその礼拝を決して喜ばれないでしょう。それゆえに、真の礼拝者の生活には絶対的な神に対する信頼という信仰の歩みが現れているのです。

多くの実

礼拝者の生活には必ず神に喜ばれる行動、そして態度の実が実ります。私たちは良い行いをするために造られた神の作品であり、神は私たちにその良い行いをあらかじめ備えてくださっているのです(エペソ2:10)。それは行動だけでなく、御霊の実としての霊的態度に何よりもはっきりと見ることができます。ぶどうの木であるイエスに繋がっている者は、必ず実を結ぶのです。ですから、このような実を結ばない生活を送るならば、そこには主に喜ばれる礼拝を見ることはできないでしょう。小さな実しか結ぶことができない人がいるかもしれません。しかし、主に対して従順でありたいという心からの願いを持っているがゆえに結ばれる霊的な実は、たとえそれがどれほど小さな実であったとしても、その人が主に受け入れられる礼拝を捧げていることの証なのです。

言葉による賛美

「賛美は神の属性とみことばを朗唱し、神の性質と成就された御業を感謝して、神をあがめることです」とマッカーサー師は言います[6]。これは私たち一人ひとりの上になしてくださった神の御業を覚えることによっても、またみことばを見ることによっても、人の証を聞くことによっても行うことができることです。神の素晴らしい働きを私たちが理解すればするほど、それは神への終わることのない賛美と賞賛に繋がっていきます。それは時に歌として歌われ、時に祈りとして捧げられ、またみことばの朗読の中で表現されるのです。

喜んで受ける苦難

天国に属する人の特徴の一つは「義のために迫害を受ける」というものです(マタイ5:10)。たとえそこに苦しみや困難が伴おうとも、喜んで主に従順であることを願い、そのように生きていくことは、まさに神が誰であるのかを理解した人の行動です。現代日本にあって信仰を持っているために命を落とすことはないかもしれません。しかし、様々な形の迫害の中で、喜んで信仰のゆえに迫害に甘んじることができるほど私たちは神を愛しているべきなのです。それは神の栄光を現すことなのです。

満足した心

「真の礼拝者はまた、環境に左右されずに満足した生活を送っています。満足は、神の知恵と主権の証であり、神の栄光を現すのです」とマッカーサー師は言います[7]。真の満足は神によってのみ与えられることを私たちクリスチャンは知っています。富も、名声も、良い人間関係も、この世が与えるありとあらゆる事柄は、私たちの心を満足させることはできません。それができるのは神だけなのです。神を礼拝し、神の栄光を現すことを心からの願いとして生きている人は、自分が存在する目的そして救われた目的を達成しているがゆえに、満足を持って生きる人なのです。たとえどのような状況にあっても神は私たちの心を満たすことができる方です。それを知り、むなしい事柄に満足を求めずに生きていく人こそ真の礼拝者なのです。

確信に満ちた祈り

神のすばらしさは、祈りの中にも顕著に現されます。私たちの祈りが、自分の求めることを要求するための手段でなく、神の栄光が現されることを求める懇願であるときに、私たちの祈りはまさに主に喜ばれる礼拝であるのです。神が望んでおられることを祈り求め、みこころに従おうという従順の心がある時に、その祈りは、また祈りの答えは神の栄光が現される礼拝の場となるのです。

明確な証

みことばを宣べ伝えるときに、神の栄光は現されます。そこには礼拝の行為があるのです。神のすばらしさを伝えるみことばには、神の栄光があります。ですから、みことばを宣べ伝え、それによって他の人々をキリストに導くとき、私たちはこれ以上ないほどの方法で神の栄光を現すのです。私たちが聖書を正しく理解し、語っていくとき、神はみことばを用いて素晴らしい業を未信者のうちにも、クリスチャンのうちにもなしてくださいます。そのようにみことばが語られるところには、礼拝、神を崇める場が生まれるのです。
実際の生活に現れるべき具体的な事柄は、これら8つだけではありません。しかし、これらの8つの事柄が現されていくとき、私たちは確かに神を礼拝する生活を送っていると言うことができるでしょう。そしてまさにそのような生き方をしていくことこそが、神が私たちクリスチャンに求めている礼拝者としての姿なのです。
 
私たちが自分たちのすべてをかけて神に応答し礼拝するためには準備が必要です。これは非常に大切な概念です。しかし、現代キリスト教会で行われている礼拝の最大の問題は、この礼拝のための準備が欠落していることでしょう。マッカーサー師は次のようにこの問題点を要約しています

「神に受け入れられる礼拝は、自動的には生まれません。準備が必要です。たとえば、礼拝においては聖歌隊が準備し、説教者が準備し、オルガニストその他の演奏者が準備します。しかし、最も重要な準備は、ここの礼拝者の準備です。それがもっとも無視されているのです。」[8]

礼拝前の数分間、黙祷をすることによって、その準備ができると考えるべきではありません。それは演奏者が楽譜を初見で演奏しないのと同じであって、十分な練習をして最善の演奏を行うための準備をしていないのと同じです。十分な礼拝の備えをするためにマッカーサー師は4つのチェックポイントがあると言います。
一番目は「誠実さ」です。正しく心を神とその栄光に向けているかが問題とされています。偽善的な礼拝を捧げないために、私たちは誠実な心で主の前に出なければならないのです。
二番目は「神への忠実—信仰—」です。キリストを信じる信仰によって神に近づくことができるという確信に基づいた礼拝が捧げられなければなりません。
三番目は「謙遜」です。自分が神の前に立つ権利を全く持たない者であるということを正しく認め、神の恵みによってのみ、礼拝者として立つことができることを理解しているがゆえに、謙遜を持って主の前に出て行くのです。
そして四番目は「純潔」です。完全に聖である主の前に出るために、私たちは日々の罪を清められる必要があるのです。
またマッカーサー師は、私たちが礼拝を捧げることを困難にさせる障害を克服する3つの事柄をあげています。それらは「悔い改め」、「服従」、そして「献身」です。これらの特徴を持った礼拝が、常に主を喜ばれる礼拝を捧げるために必要なのです。
ではこのような主に喜ばれる礼拝を捧げた時、どのような結果がもたらされるのでしょう。マッカーサー師は4つの結果があることが教えます。最初の結果は、「神の栄光が現される」ということです。これは当然の結果であると言えるでしょう。神の栄光を現すために救われた者たちが、神に栄光を帰すことを目的に礼拝を行えば、そこには神の栄光が示されます。神の栄光のために生きる者たちが自分たちの生涯を通して神の臨在を顕著に現していく、そのような者たちが一堂に会するなら、そこは神の栄光で満たされるのです。
次に現れる結果は、「聖徒がきよめられる」ということです。礼拝は純潔が求められます。それゆえに主に喜ばれる礼拝が捧げられるところでは、人々は自らの罪を正しく認識し、聖霊の働きを通して主に近づくために自らをきよめて行くのです。
三番目は「教会が啓発される」ということです。個人的成長が促されるのが礼拝であるとするならば、それは同時に教会の啓発にも繋がります。「教会での礼拝が、聖徒をさらに勝った従順に導かないなら、どう呼ばれようとそれは礼拝ではありません。礼拝には必ず変化が伴います」とマッカーサー師が教えるとおりです[9]。
最後に、「失われている者に福音が伝えられる」という結果が生まれます。礼拝と伝道を切り離すことはできません。神の民が神を正しく礼拝するところには、必ず神の臨在が顕著に見られます。それはどのような言葉や行いによる証よりも力強いものとして、主のすばらしさを証するのです。
私たちは礼拝者として永遠の生涯が与えられています。完全な礼拝は、私たちがキリストにお会いして、完全な者とされたときに捧げることができるものでしょう。しかし、この事実は今私たちがそのような完全に主に喜ばれる最高の礼拝を捧げる責任を逃れる言い訳にはなりません。神の栄光のために存在し、神の栄光のために救われ、神の栄光のために生かされている私たちは、この地上で主の栄光を正しく現す、主に喜ばれる礼拝を捧げていくことに努め続けなければならないのです。そのような礼拝を私たちが捧げていこうとするときに、主は私たちのうちに働いて、私たちがより主のすばらしさを反映して生きていくことができる、より主の栄光を顕著に現す教会へと変えてくださるのです。
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[1] ジョン・マッカーサー著、「礼拝生活の喜び」、194
[2] 同上、197
[3] 同上、211
[4] 同上
[5] 同上、214
[6] 同上、217
[7] 同上、220
[8] 同上、226
[9] 同上、237