ヨハネの福音書4章にでてくるイエスとサマリヤの女との対話の中で、イエスはこの女が持っていた礼拝観に異議を唱えました。そこで語られたイエスの言葉は、私たちの持っている礼拝観を吟味させるものです。私たちの多くは、礼拝というものが定められたときに、定められた場所で、ある特定の方法を持って行われるべきであるという考えを持っています。しかしイエスが答えの中に、私たちは「礼拝とは、特定の場所、時、形式に制限されるものではない」という真理を見出すことができます。ここで私たちは特に、礼拝の場所という点に焦点を当てて考えていきたいと思います。

イエスがヨハネの福音書4:21で語ることばを見るときに、私たちは、礼拝の行われる場所の不特定さというものに気付かされます。イエスはやがて真の礼拝者が、神を礼拝するときがくることを教えます。そしてこの礼拝者たちは特定の場所 (エルサレムやゲリジム) で礼拝するのではないと言うのです。ではいったいどこが礼拝する場所なのでしょうか?
私たちはサマリヤの女と同じように、どこか特定のところにいって礼拝をするべきであると考えています。しかし、旧約時代、そしてイエスの時代において礼拝の場所とされていた神殿は、やがてくる本体の型でしかありませんでした。確かにソロモン王が神殿を建てたときに、神の栄光がこの神殿を満たし、神の臨在が明らかに見られました (列王記8:11)。この神殿が建てられる以前は、人々は契約の箱の置かれている幕屋にて礼拝を捧げていました。それは、この幕屋が建てられたときに、主の栄光がこの幕屋を満たしたからでした (出エジプト40:34-35)。つまり、礼拝は神が臨在されておられるところ (それが最も顕著な形で示されていた場所) で行われていたのです。
また私たちは聖書から、至聖所において年に一度大祭司が贖いの血を携えて主の前へ出て行ったということを知ることができます。この至聖所は、主がおられた場所としてもっとも聖なるところと理解されていたのです。この至聖所と、その手前にあった聖所は会見の幕というものによって仕切られていました。唯一この会見の幕を通ることができたのは大祭司だったのです。しかし、これらのことはイエスがやってこられ、私たちの救いを完成してくださったときに過ぎ去ったものであると新約聖書は教えています。
パウロは旧約時代の神殿や幕屋に変わるものが今の私たちにあると言います。それは、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮で・・・あることを知らないのですか」(1コリント6:19) という言葉によって私たちに伝えられています。マッカーサー師は次のように解説します。
「信者はみな、神が内住する、生ける、呼吸している宮です。信者が、どこでも、いつでも礼拝できるということを意味しています。神はいつも臨在して、ともに行ってくださるのです。クリスチャンは、海岸でも山の中でも、ドライブをしながらでも、木の下に座ってでも、森を歩きながらでも、そう、あらゆる環境、状況の中で礼拝できるのです」[1]。
キリストのなされた業のゆえに私たち自身が今「神の神殿」であり、私たちのうちに神の臨在があるのです。ですから私たちはこの主をどこであろうと礼拝することができるのです。キリストが十字架にかかりそして息を引き取られたときに、共観福音書は、会見の幕が上から下まで裂けたことを記しています (マタイ27:51; マルコ15:38; ルカ23:45)。へブル人への手紙9章と10章では、いかにキリストによって至聖所への道が開かれ、キリスト者が神との会見を自由にできるようになったのかということが書かれています。神はキリストの血を通して、私たちが至聖所に入るのを許可されるのです。「キリストは神を自由に礼拝できるように、あなたを神に近づけるため至聖所に入れようと、十字架にかかり、ご自身を捧げられました」[2]。このキリストの御業のゆえに、私たちは教会に来なければ礼拝をすることができない、または教会でなければ礼拝をしてはならないと考える必要はないのです。
ではなぜ私たちは教会へ来て礼拝することを重要視するのでしょうか?クリスチャン一人一人が神の宮であるから教会に来て礼拝をする必要はないと考えてもよいのでしょうか?この質問に聖書的に答えるために、私たちはヘブル人への手紙の著者の言葉に耳を傾ける必要があります。この手紙の著者は次のように教えています。

また、互いの勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:24–25)

この箇所から「だから教会に来ないといけません」といった内容の教えがよく語られます。しかし、実はこの箇所が教えていることは教会に来ることではありません。この二節は一つの文章で、この文を支配する主動詞は「注意深く考える」という動詞です。つまり、この文で最も言わんとしていることは「お互いに注意深く考えましょう」ということなのです。さらに興味深いことは、何に関して注意深く考えるのかということです。ここで著者は「愛と良い行いに激化するように」という表現を使って注意深く考えるべき内容を明らかにしています。この「激化」と訳せる言葉は「憤慨させる」や「いらだつ」といった通常悪い意味に使われる言葉なのですが、ここではあえてそのような意外な言葉を用いて、いかに激しく愛と善行に励むように促すのかが表現されているのです。
25節は、新しい命令が与えられているのではなく、この「愛と善行に激化するためにお互いに注意深く考え合う」ことをどう実践するのかが記されています。つまり、私たちがお互いに注意深く考え合うためには、私たちはともに集まらなければならないと言っているのです。ここで私たちが覚えておかなければならないのは、私たちが集まる理由です。あまりにも多くのときにクリスチャンは集まることを目的として集会を行いますが、集会が行われる目的は集まるためではなく、愛と善行に激化するようにどう相手に働きかけるのかをお互いに注意深く考え合うためなのです。
愛を行い、善を行うことは、まさに礼拝の本質です。それは神のすばらしさを現し、主の偉大さを讃えることに直結しています。確かに礼拝とは個人的なものであり、私たち一人一人が神の前に毎日の生活を通して捧げるものです。しかし、クリスチャンが、いつも矛盾のない礼拝生活を維持しようとするならば、公の礼拝に集まる信者との交わり、励ましが必要です。なぜならば、個人の礼拝と公同の礼拝は互いに養い合うものだからです。私たちは自分だけで成功することはありません。クリスチャン同士の励ましが必要であり、私たちには、勝利に満ちた信仰生活を全うするのに、互いに勧め合い、励まし合うことが必要なのです。
新約聖書の中に、教会に属さない信徒を見出すことはできません。真に救われた者たちは皆、キリストのからだ (見えない教会) に加えられ、地域の教会 (見える教会) に属する者になります。クリスチャンはこの地域教会に集まり、与えられた賜物を用いて互いに仕え合い、主を讃えることに励んでいました。これは日曜日の礼拝に減退されたものではありません。パウロは特定の日が特別に大切なものではないことを教えています (ローマ14:5)。それゆえに教会に集うべき日が「日曜日である」というのは、聖書的な回答ではありません。確かに新約聖書は信徒たちが日曜日に礼拝のために集っていたことを記していますが (1コリント16:2; 使徒20:7)、彼らが毎日のように共に集まり礼拝を捧げていたことも記しています (使徒2:46; 5:42)。真のクリスチャンはキリストのからだにつながり、そこで与えられている責任を全うすることを心から願う者です。一人でクリスチャン生活を全うすることができないことを理解しているがゆえに、集まることを止めたいと思う者ではないのです。
神の宮であるクリスチャンが集まるとき、そこには大きな宮ができあがります。私たちは、一人一人がこの大きな宮を形成する石であり、互いに支え合いながら、神を褒め称える生活を成し得ていくのです。パウロは、1コリント3:16で聖徒の共同体である教会も、個人個人と同じように「神の神殿」であると語っています[3]。そしてこの神の宮である教会の中を、神は歩まれるとパウロは言っています (2コリント6:16)。ペテロは1ペテロ2:5で「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえを捧げなさい」と言います。ここに公同の礼拝の真の姿があるのです。マッカーサー師が言うように「教会は、石で造られた建物ではありません。生ける人間で造られています。私たち信者は、神の宮の生ける石です。そして、一緒に集まるとき、礼拝の場所を構成します。そこで神は、わたしたちが一人でいるときとは違う方法で顕現されるのです。信者は神の生ける宮となります。そして、贖いだされた教会の集まり以外ではあり得ない霊のいけにえを神に捧げるのです」[4]。
教会での礼拝は特定の順序に従って特定のことをすることだと考えるがちです。これは礼拝が実質としてよりも、形式やスタイルとしてみられていることを顕著に示しています。しかし真の礼拝とは形式による外的なものではなく、毎日の生活の中にあふれでる内的なものを指しているのです。これは個人の礼拝においてもそして公同の礼拝においても言えることです。マッカーサー師は「礼拝に形の整った儀式が必要だとか、ムード音楽のようなものが必要だと感じているとしたら、それは礼拝ではない」と断言します[5]。これは音楽や礼典が必要ないということではありません。礼拝をする者たちにとって、これらがより良い礼拝を捧げる助けになることがあることをマッカーサー師は認めています。しかし、これらがあることによって「良い礼拝が捧げられる」とか「礼拝をする準備を整えられる」とか「礼拝をしたいと思うようになる」というような考えを持つならば、それは間違っているのです。礼拝の決定的要素は「どのような形式を持って礼拝を行うか」ではなく、「どのような心の状態で一人一人の聖徒たちが礼拝をしに来るのか」ということにあるのです。「もし公同礼拝が個人的な礼拝生活の表明とならないなら、神に受け入れられることはできません。一週の間自分勝手に生活しながら、日曜の朝になったら教会に行って礼拝できると思っているなら、大変な間違いです」[6]。
では、なぜ私たちは教会へ行くのでしょう?日曜の朝、礼拝のために教会へ来るとき、私たちはなにを求めてやってくるのでしょうか?マッカーサー師は「私たちは、あまりにも長いこと、教会とは私たちを楽しませるところと考えるのに慣れてきました」と言います。「礼拝を捧げるため」に教会に来るのではなく、「礼拝を受ける」ために消費者として観客として教会に来るのです。それゆえに、わたしたちは、礼拝を聖徒たちと共にするために教会へ来るのではなく、なにかを得るためにやってくるようになっています。その結果、「独唱者をじろじろながめ、聖歌隊を批判し、メッセージのあら探しをして、教会から帰ってくる・・・」ようになるのです [7]。もし私たちが、祝福を受けるために教会へ来ているならば、それは礼拝の要点を見失っていること証明しています。私たちは祝福を受けるために礼拝に来るのではありません。神さまに栄光を帰するために、神を心から讃えるするために来るのです。ですから、問題は私たちがなにを得たかにあるのではなく、心から神を礼拝したか、神に栄光を帰したのかということにあるのです。「祝福は、礼拝の答えとして神から与えられるものです。祝福されないのは、まずい音楽や説教のせいではありません。・・・・神に栄光を帰さない利己的な心のせいです」とマッカーサー師は告げます。また彼は、キールケゴールという人の言葉を引用してこう言っています。「人々は、説教者は舞台の俳優、自分たちは批評家で、説教者を非難したり賞賛したりすると考えている。しかし、彼らは自分たちが俳優であることを知らない。また説教者は、舞台のそでに立って忘れたせりふを教えているだけであることも知らない」[8]。
私たちは、主が私たちの内に住んでおられるゆえに、どこででも礼拝をすることができる者です。また私たちが集まって礼拝を捧げるとき、それは個人の礼拝の延長であり、一人一人の毎日の生活の中での礼拝の反映の場であるのです。正しい、神に喜ばれる礼拝を毎日の生活で成していこうと願うときに、私たちは自分たちの弱さを痛感します。そして同時に、ほかのクリスチャンたちと集まって、礼拝を持つことの重要性に気付かされるのです。公同の礼拝において、私たちは、愛と善行をする励ましを受け、またほかの人たちを同じように励まします。この励ましによって、私たちが強められ、愛と善行を行っていくとき、そしてそれらを持って神を賛美し感謝しながら行き続けるときに、礼拝生活のサイクルが完結するのです。私たちはこのような礼拝を捧げるために贖い出されたのです。忘れてはならないことは、礼拝とは、個人のものであれ、公同のものであれ、神に栄光を帰すために行われることで、私たちはその目的のために贖い出されているということです。
 
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[1] ジョン・マッカーサー著 「礼拝生活の喜び」、157
[2] 同上、158
[3] 「あなたがたは神の神殿であり」という箇所は原文では「あなたがた」(複数) に対して「神殿」が単数となっています。つまりコリントの信徒たちが一つの神殿であることをパウロは告げているのです。
[4] ジョン・マッカーサー著 「礼拝生活の喜び」、160–61
[5] 同上、162
[6] 同上
[7] 同上、163
[8] 同上、163–64