私たちは神の属性を考えるときそれらを礼拝と切り離して考えるべきではありません。マッカーサー博士はこのことを5章と6章でまとめてきました。神がどのような方であるかを正しく理解するとき、その知識は私たちを礼拝へと導くのです。たくさん挙げることができる神の属性の中でも、最も重要と言える属性は神の聖さです。マッカーサー師は次のように述べています。

基本的には、神は聖であると言うことです。全ての属性のうち、聖が最も特別な形で神を述べています。聖という語は、神の分離性、独自性、神が他のどのようなもののようでもないという事実に言及しています。神が全く、限りなく完全であられることを示しています。聖は、他の全ての属性を総括する属性なのです[1]。

神が聖であることを知ることは礼拝をする上で非常に大切です。なぜならこのあらゆる存在とは別格である「聖なる神」だけが真の礼拝の対象であり、この方に受け入れられる礼拝がどのようなものであるのかを私たちに示すからです。

神の聖さに基づく絶対的な聖の標準

「神の聖さ」には道徳的な概念が伴います。聖書は神があらゆる不義から分離していることを教えているのです。つまり神には汚れたところが一切ありません。この事実は「結果さえ良ければ、手段に悪が含まれたとしても神は喜んでくださる・・・」といった実利主義的な考えを私たちから排除します。なぜならば、罪を犯しながら神に喜ばれることはできないからです。神は聖書を通して、私たちがどのような行動を取るべきかを教えてくれています。それらを無視して、「終わりよければ全て良し」と言うことはできません。個人の生き方から教会の働きのあり方に至るまで、神は私たちにどのような歩みをなすべきかを示しておられます。パウロが言うように私たちは「召しにふさわしく歩む」ことが何よりも求められているのです (エペソ4:1)。
この方は完全な聖さを持った方ですから、聖を持たない者は主の前に立つことはできません。神の民であるということは、神の聖さを身につけた者となることを意味するのです。エデンの園でアダムが神と共にいることができたのも、新天新地で贖われた民が神と永遠を過ごすことができるのも、神の聖さを彼らが身にまとうからです。「私が聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」という命令は、旧約時代だけの命令ではなく、新約時代に生きる私たちにも与えられている命令です。神の民に求められていることはこの神の聖さを身につけて、歩んでいくことなのです。
 

神の聖さと神に対する畏れ

「神が聖なる方である」ということと「神を畏れる」ということは切り離して考えることができません。マッカーサー師は「聖書の中では、神の聖の概念が、礼拝者の側の恐れと結合されていることが多いということが分かります。純粋な聖さを前にして、全く無価値だと感じさせられることから生ずる恐れです」と言います[2]。神を前にして畏れを抱かない人はいません。完全な聖さの前で人は自らの罪をはっきりと理解するがゆえに神を畏れるのです。このような畏れを抱かない人物は正しく神を理解しているとは言い難いでしょう。聖書は主の前に立った者たちが例外なくこの畏れを現していることを記しています。イザヤは神の栄光を目の当たりにした人物の一人です (イザヤ6章)。当時のイスラエル民族の中で、イザヤほど神の前に出るにふさわしい人物はいなかったと言っても過言ではないでしょう。しかし主の聖さを垣間見たイザヤは、自分の「罪深さを意識して、存在の芯まで打ち砕かれたのでした」[3]。イエスに愛された使徒ヨハネも、天で主の御姿を見た時、畏れのあまり「その足もとに倒れて死者のようになった」ことが記されています (黙示録1:17)。

神の聖さを理解するまでは、自分の罪の深さを知ることができないのです。自分自身を神と比較するなら、私たちは根源まで震えおののかずにはいられません。罪について苦痛を味わわないなら、神の聖さを理解していないのです。[4]

このマッカーサー師の言葉はまさに核心を捉えています。律法学者やパリサイ人の大きな誤りは、彼らが神と自分自身を比較するのではなく、他の人と比較し誇っていた点でした。彼らは誇りを持っていましたが、神の前に正しい畏れを持っていなかったのです。
近年のキリスト教会は主に対する畏れの欠如した礼拝を捧げています。しかし神に喜ばれる礼拝は、神の聖さを正しく知り、それゆえに深い畏れを抱きつつ神を崇めることにあるのです。神に関する正しい知識を持てば持つほど、人はより深く神を畏れるようになります。そしてその畏れが人の心を砕き、へりくだりの中で主を礼拝する姿勢を作り出すのです。
 

畏れの必要性

私たちが持っているイエス像というのは実際にはあまりにも聖書に見る姿とかけ離れています。確かにイエスは愛とあわれみに満ちた方でしたが、イエスは人々から恐れられる存在であったのです。私たちは福音書に記されている人々のイエスに対する対応から、イエスの神性が理解されたときに起こった畏れを見て取ることができます。権威を持って語り (マタイ7:28–29; ヨハネ7:46)、神の御業を行い (ヨハネ9:33)、誰よりも優れた知恵を持ち (マタイ22:45)、罪なく (ヨハネ8:46)、常に義を行い (ヨハネ18:23)、圧倒的な力をもってご自身の神性を示された主は、確かに畏れを人々にもたらす存在でした。マルコ4:37–41では、嵐を静めたイエスを弟子たちが「大きな恐怖に包まれ」たことが記されています。マルコ5章には悪霊を追い出したイエスに対して、町から出て行くように願い出ました。それは飼育していた豚が死んでしまったことを恨んでいたからではなく、イエスの聖なる力に恐れを抱いていたからです (5:15)。長血をわずらっていた女はイエスの衣に触っていやされた時、イエスの前に「恐れおののき」出て行ったことが記されています (マルコ5:33)。だれも治療することのできなかった病をその衣に触れただけでいやされた方が誰なのかを理解したがゆえの畏れを彼女は抱いていたのです。ペテロも同様にイエスの偉大な力を見て、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と告げました (ルカ5:8)。イエスの神性が明らかにされた時に、ペテロが唯一見ることができたのは自らの罪深さだけだったのです。
これらを通して分かることは、人々に愛と恵みのメッセージを携えてやってきたイエスは、畏れをもたらす方であったという事実です。圧倒的な聖さの中で、人々はイエスに対して、自らの罪深さを知ったのです。真の礼拝者は自分の罪深さに打ち砕かれていると者です。そのような者が主に捧げる礼拝は、マッカーサー師が記すように「真の礼拝生活は悔いた生活です。罪を見、絶えずそれを言い表す生活なのです」[5]。
「神を畏れる」ということは私たちクリスチャンにとって必要不可欠なことです。しかし神の愛と恵みを強調し、神の聖さを語ることを怠ってきた現代のキリスト教会は、「恵みぼけ」をしているのではないでしょうか。マッカーサー師は警告します。

神は今でも恵み深くあられます。私たちが生きているのは、ただ神があわれみ深い方だからです。しかし私たちは、神のあわれみを感謝をもって受け入れ、神を恐れ続けないで、それに慣れてきました。そのため、神が罪を罰するのを見て、私たちは、神が正しくないと思うのです。[6]

私たちは、神のあわれみや恵みに慣れすぎています。そのため、神が罪に対して起こる権利を全く持っておられないと思っているのです。[7]

あなたの神はどのような方でしょうか。もし神が恵みしか与えない、あなたの汚れを問い正さない方であるならば、あなたの理解している神は聖書が教える神とは異なっていることに気がつくべきです。確かに私たちの主は「慈しみ深き友なる方」ですが、それは私たちが気軽に声をかけ、人間同士の親友であるかのような、畏れの欠如した関係では決してないことをしっかりと理解していなければいけません。神は昔も今も変わりなく罪を憎み、罪を裁く方です。不正が行われるときに、主は裁きを送られます。私たちはこのような聖い神の前に立っていることを忘れてはならないのです。マッカーサー師は次のようにまとめます。

神は、生ける方、永遠の栄えに満ちた方、あわれみ深く聖なるお方です。神を礼拝する者たちは、その聖さの中に立ったときの自分を見て、悔いた、謙遜な、砕かれた態度をもって来なければなりません。そして、そのようにするとき、神の赦しの贈り物に対する感謝と喜びが心の中にもたらされるのです。こうして私たちの礼拝は、そのあるべき理想的な姿となるのです。礼拝が神を十分にお喜ばせするものとなるために、告白と悔い改め、そして罪に背を向ける生活を送るべきです。汚れたままで、あわてて神の御前に出たりしてはなりません。崇敬と敬虔な恐れをもって、聖のうるわしさの中で礼拝しなければ、神に受け入れられる礼拝はできないのです。真の礼拝の特徴である感謝と謙遜に満たされるためには、神の、この上ない、そして畏敬の念を起こさせる聖さについて、聖書の教えに帰らなければならないのです。[8]

聖なる方である神を礼拝するには、聖を求め、生きる態度が必要であるのは当然のことです。この方に倣って生きていこうとする私たちは、人生の全てを聖なる者として礼拝を捧げることに費やしていくのです。そして完全な聖さを求める神の前に、その聖さを持つことがない私たちは、ただ「恵みのゆえに信仰によって」罪の赦しと完全な贖いを与えてくださる主に対する心からの感謝と、正しく聖い恐れをもって出て行くのは当然のことなのです。
 
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[1] ジョン・マッカーサー著 「礼拝生活の喜び」、116
[2] 同上、122–23
[3] 同上、124–25
[4] 同上、125
[5] 同上、131
[6] 同上、132
[7] 同上、132–33
[8] 同上、136