救いの根本には礼拝という概念が刻まれています。本来人間は神が喜ばれる完全な形で礼拝を捧げることができる者でした。アダムはエデンの園で神との完全な交わりを持ち、神に似た者として神の素晴らしさを反映させ、主を褒め称える者だったのです。しかし彼の罪は人間の存在目的である主への礼拝ということから離れさせ、罪の故に神を神とせず、己を神として崇めるような汚れ果てた存在へと返させたのです(ローマ1:19-23)。けれども、神は私たちに救いを備えることによって、私たちを再び礼拝者として主の前に立つことができる者へと変えられたのです。救いを考えるとき、私たちは自分自身に与えられている祝福を一義的なものとして捉えます。しかし、贖いの究極の目的は私たちが何かを受けることではありません。私たちの救いは、神に礼拝を捧げるためにあるのです(エペソ1:6, 12, 14)。

礼拝が神の計画の中心にあるのは聖書を見れば明らかです。人と神の関係を考えるとき、そこに最もふさわしい言葉は「礼拝」という言葉です。神は礼拝されるべき方であり、人は礼拝するべき者なのです。これはイスラエルの歴史にはっきりと見て取ることができます。マッカーサー師はこう言います。「イスラエル人の歴史には明確な型がありました。人々が適切に神を礼拝していたときには、必ず神の祝福がありました。しかし、神の望んでおられる方法で礼拝しなかったとき、彼らは罰せられたのです」[1]。イスラエルに与えられていた契約には具体的な祝福が伴っていました。従順にはそれにふさわしい祝福の報いが、不従順には呪いの報いが与えられていたのです。そしてこの基準はまさに礼拝という言葉によってまとめることができるといっても過言ではないでしょう。神を神として認め、それ故に主が語ることを熱心に守り生きていくことこそが礼拝者の生き方であるからです。そのような従順に神は祝福を持って答えてくださっていたのです。

新約の時代においても礼拝者の生き方は何一つ変わりません。確かに教会はイスラエルと同じように神との契約の中で、具体的な祝福と呪いを約束されているわけではありませんが、「神に従順に生きていきたい」という救われた者だけが持つことができる願望は、旧約の時代も新約の時代も変わることなく神の民の内にあるものです。

神であるイエスに対して私たちが持つべき態度は礼拝の態度です。そのことは福音書を通して記されています。イエスが誰であるのかを知った者たちは、主の前に礼拝を捧げました。キリストによる贖いは人々を真の礼拝者に変える力があるのです。そしてそれは一時のことではなく、永遠に続くものであると聖書は教えています。マッカーサー博士は次のように記します。

「神を礼拝しなさい。これこそ永遠の福音、神が永遠から永遠にわたって与えておられるメッセージです。真の、生ける、栄光の神を礼拝すること—それは、聖書のテーマ、永遠のテーマ、贖いの歴史のテーマなのです。創造以前に、創造以後に、永遠の過去に、永遠の未来に、そして、その間のすべてのときに、礼拝は、テーマです。被造物の全てにおける中心的な問題なのです」[2]。

全ての人が神の御前に立ちます。しかし神に受け入れられる者は真の礼拝を捧げることができる人だけです。贖われていない人が真の礼拝者になることはありません。同時に本当に贖われている人は、必ず真の礼拝者になります。真の礼拝を捧げているかどうかがその人の永遠を明らかにします。礼拝を目的として創造された私たちは、礼拝をせずに生きることができないのです。そして私たちは真の神を心から礼拝するか、それ以外の者を礼拝するかのどちらかの行動を取っているのです。

私たちが救われているならば、必然的に礼拝者としての生活が生まれてきます。神の求めておられる生き方を切に求め、足りない部分があることを認めて悔い改め、日々主に似た者となることを思いながら、聖い者として生きていこうとするのです。もちろん完全ではありません。しかし、主が求めることを完全にできない自分がいることを理解しているがゆえに、完全にされることを心から待ち望み、完全になるという約束が与えられていることを心から感謝し、完全でありたいという心からの願いをもって日々の生活を送ろうとするのです。

このような生き方は同時に伝道的な生き方でもあります。神に喜ばれる真の礼拝が行われるとき、そこには本物の充足感があります。礼拝の行為の中に喜びが満ちあふれ、神の愛が示されます。そして、それは神の素晴らしさを知る機会となるのです。このような礼拝は未信者を真の礼拝者へと変えるのです。

「私はクリスチャンです。」と口にする人たちがたくさんいます。しかし真のクリスチャンは礼拝者であり、心から神を崇め讃えて生きていきたいという願いに突き動かされています。それこそがクリスチャンであることのしるしなのです。マッカーサー師は「もし贖われていながら、今神に受け入れられる礼拝をしていないなら、贖われた目的そのものを否定しているのです。」と言います[3]。私たちは本当に真の礼拝者として生きているでしょうか。確かに失敗をするでしょう。しかし私たちが礼拝を捧げるということに関して妥協し、自分自身を全て捧げるという態度をもって礼拝生活を送ることをしていなければ、私たちは自分の救いの真実性を検証しなければならないでしょう。

神が求めているのは真の礼拝者です。救いを受けることによってそのような者に私たちは変えられたのです。神でないものを神として崇める者から、真の神を礼拝する者に変えられたのです。力のないものに依存する者から、全能の神に依存する者に変えられたのです。被造物を信頼する者から、創造主を信頼する者に変えられたのです。それ故に私たちは、神に礼拝を捧げない者としてではなく、神に喜ばれる礼拝を捧げるために私たちは生きていくのです。

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[1] ジョン・マッカーサー著 「礼拝生活の喜び」、46

[2] 同上、54–55

[3] 同上、61