「礼拝が、一つの場所や時、生活の部分に限られていたり、それだけに属していることはありません。利己的、肉的な生活をしながら、感謝を口にしたり、ほめたたえたりすることはでき得ません。礼拝でそんな努力をすることは邪道です。礼拝の真の行為は、礼拝生活からあふれでたものでなければならないのです。」と書き記すことによって、ジョン・マッカーサー師は日曜ごとに捧げる公同の礼拝と私たちの毎日の生活が切り放すことができないということを明言しています[1]。このことをA. P. ギブスは、その著書のなかで、次のように述べています。

信者各自が週日の間、主と交わり、御子において啓示されている神のすべてを個人的に自分で理解して、その満たされた心をもって礼拝に臨むべきであることである。クリスチャン各自がこれを行うなら、礼拝集会の霊的状態は高い水準にまで引き上げられるであろう。[2]

公同の礼拝はあくまで個人が毎日の生活の中で行う礼拝の反映なのです。それゆえにギブス師は、「礼拝のために集まった会合での集団的な礼拝の性質が、出席している信者各自の霊性によって左右されるものであることは言うまでもない。」と言うのです[3]。
礼拝と毎日の生活は切り離されたものではありません。「週休6日のクリスチャン」という生き方は真の礼拝者の生き方ではないのです。このことをもう少し詳しく考えるために礼拝とは何かをしっかりと理解しておかなければなりません。礼拝とはいったい何なのでしょう?様々な形で礼拝を定義することができるでしょうが、もっとも簡潔なものとして礼拝を「神に対する誉れと崇敬」と定義することができるでしょう。この定義は新約聖書の中で礼拝を指す二つの言葉を見たときに示されるものです。
プロスキュネオー
この動詞は、新約聖書の中で、神に対してのみ使われている言葉です。キュネオー (キスをする)という動詞とプロス (〜に対して)という前置詞からなっているこの言葉は、文字どおり、「くちづけする」「手にくちづけする」「ひれ伏して拝む」(地面にくちづけする)という意味を持っています。この言葉が使われるとき、私たちはそこに、礼拝者の神に対する深い崇敬を見いだすことができます。それゆえに、ペテロや天使は、自分たちが礼拝の対象となったとき、それをはっきりと拒んだのです(使徒10:25; 黙示19:10)。礼拝の行為、ひれ伏して拝むまでの崇敬というのは神のみが受けるにふさわしいものなのです。
ラトリューオー
仕えるという意味を持つこの言葉は、特に新約において、神に対して仕えていく、礼拝するという意味で使われています。仕えるという行動をもって神を礼拝しているのです。仕えるというこの言葉の背後に、私たちの行動を通して、神に誉れを与えること、敬意を表すことが示唆されています。
この二つの礼拝を指す言葉から、礼拝とは「神に何かを捧げること」であるということが分かります。礼拝は神に崇敬を捧げ、私たちの奉仕をもって神に誉れを与えることなのです。ギブス師はこのことに関して、「救いは神からの無償の賜物として、われわれが受けるものである。礼拝は神および神のなされたすべての事柄に対するわれわれの深い尊敬のしるしとして、われわれから神にささげるものである」と説明しています[4]。
悲しいことにクリスチャンの多くは「礼拝を受ける」ために教会にやって来るという大きな過ちを犯しています。残念なことに「現代のキリスト教では、神が私たちになにかを与えるべきだという考え方」が主流となっているのです。しかし、ギブス師が正しく理解しているように、「旧約聖書においても新約聖書においても、礼拝者は祝福されるために来るのではなくて、すでに祝福されているから来る」のです[5]。豊かに与え、祝福して下さっている神に、私たちは崇敬と誉れをささげるべきです。私たちは礼拝をするにあたり、私たちが何を得られるか、礼拝がどんな楽しみを私たちにもたらすか、それはどんな満足をもたらすかという事を考えがちです。しかし、礼拝とは信者に自己満足を与えるためにあるのではなく、私たちを救って下さった主に満足を与えるためのものであるのです。
では、どのような礼拝が主に満足を与える礼拝なのでしょう?主が受け入れて下さる礼拝とはどの様なものなのでしょう?聖書には少なくとも3つのことが明記されています。

1.     他の人たちに対する対応

主に受け入れられる礼拝とは、他のクリスチャンに対する正しい関係とノンクリスチャンに対する伝道、そして、真に必要を抱えている人たちの必要を満たすことが含まれてます。これらのことを「一語で要約すると、受け入れられる礼拝は、与えることであるということができます。分かち与える愛なのです。」とマッカーサー博士は言います[6]。神が私たちを愛してくださったように他の人たちを愛するとき、そこには神に受け入れられる、喜ばれる礼拝があるのです。

2.     個人的な行動

私たちが神の前に善を行っていくとき、そこには神に受け入れられる礼拝があります。私たちは、神の栄光を現すために救われました(エペソ1:11-14)。そして「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10a)とパウロは教えます。それゆえに、私たちが神の御前に良い行いをなしながら歩んで行くときに、それは神の前に受け入れられる、喜ばれる礼拝となるのです。

3.     神への応答

神への感謝と賛美、これが神の前に受け入れられる礼拝であるとヘブル人への手紙の著者は私たちに訴えます。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分け与えることを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」(ヘブル13:15-16)という言葉は聖書が教える、神に受け入れられる礼拝の形なのです。
これら三つのことを見たときに、礼拝とは日曜日に教会に来て、祈り、賛美をし、メッセージを聞き、交わりの時を持つことではないことをはっきりと知ることができます。礼拝とは毎日の生活の中で私たちがどのように主の前に生きていくのかに関係しています。そのことを私たちは忘れてはならないのです。
神が私たちのためになされた御業を知っていくとき、私たちが唯一取ることができる適切な応答は、私たち自身を生きた供え物としてささげることです。パウロも(ローマ12:1-2)、ペテロも(1ペテロ1:2-5)、そしてヘブル人への手紙の著者も(ヘブル12:28-29)そのことを同じように述べています。私たちは神の御前に、私たち自身のすべてをささげることが必要なのです。日曜日だけでなく、毎日の生活の中で私たちは世の中と調子を合わせるのではなく、神のみこころとは何かということをわきまえ知るために、私たちの心を一新していく必要があるのです。
聖書は私たちに礼拝を優先するように教えています。それは形だけの、外面的な物ではなく、「内的で犠牲的、積極的で実り豊かなものです」[7]。私たちは他の何よりも、神を崇拝すること、神に栄光を帰することを優先しなければなりません。そのために私たちは造られたのであり、救われたからです。
たとえどれほど素晴らしい働きをしていたとしても、礼拝者として自らを主の前に捧げ、主が褒め称えられること、主に喜ばれることを目的としていなければ、その人は主に受け入れられる礼拝を捧げることはありません。マッカーサー博士は次のような言葉で私たちに警告します。「私たちは、多くの活動をしますが、ほとんど礼拝をしていません。奉仕を重視しますが、崇拝にはそれほど注意を払いません。私たちは悲惨なほど実用的です。私たちが知りたいのは、何が効果的かということです。私たちは、因襲的な方式や策略を好み、どうしたものか、神がするように召されたものを無視しているのです。」[8]。神が求めていることをなすことなく、どれだけ主を讃えたとしても、そこには主に受け入れられる礼拝は存在しません。礼拝は、救いを得た者に対して神がその存在目的として与えたものであるが故に、生活のあらゆる部分で、人に対する愛、主の前にある正しい行い、そして神への感謝と賛美という形で現れていなければいけないのです。そのことを教会が忘れ、形だけの礼拝をクリスチャンが追求し満足するならば、主はそのような教会を決して喜ばれず、祝福されることはないことを私たちははっきりと知る必要があるでしょう。
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[1] ジョン・マッカーサー著「礼拝生活の喜び」, 27.
[2] A. P. ギブス著「礼拝」, 31.
[3] 同上
[4] 同上, 25.
[5] 同上, 29.
[6] マッカーサー、「礼拝生活の喜び」, 30.
[7] 同上, 41.
[8] 同上, 40.