歴史を通して神は私たち人間に正しい礼拝を捧げることを要求されてきました。特に旧約聖書において、私たちは神がいかに正しい礼拝を求められていたかということを見て取ることができます。
神はなぜ人に神を礼拝することを求められたのでしょうか?それは神が人を作られた最大の目的が、神の栄光を現すためであったからです。神が私たちを(そしてすべての被造物を)創造されたのは、ご自身の栄光を現すためであったと記されています(イザヤ43:7)。特に救われ、そして主のものとなった私たちは、世界の創造以前から神をほめたたえる者となるために、選ばれていたとパウロは教えます(エペソ1:11–14)。それゆえにパウロは私たちキリスト者に対し、「何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)と命じているのです。私たちは神をほめたたえるために生きているのです。
ですから私たちにとって最も重要なことは、私たちが神を礼拝するために(神に栄光を帰するために)存在しているがゆえに、私たちのすべてをもって神を正しく礼拝することなのです。「どんなに気高くても、人生を礼拝以外の目的のために用いる者は、ひどい罪を犯しているのです」[1]という言葉は非常に厳しい言葉かもしれませんが、私たちの人生に関して、これほど正しい表現はないでしょう。神は私たちを礼拝するために創造し、贖いました。それゆえに神は私たちの生活の中心が礼拝であることを求めておられるのです。礼拝以外のために生きることは神に対しての反逆であることを私たちはしっかりと理解しなければなりません。
また神は人が自分勝手な方法で、礼拝することを喜ばれません。神の定めた基準からはずれた礼拝を受け入れないのです。「誠実でありさえすれば神に受け入れられる」と主張する人もいるかもしれませんが、それは間違いです。聖書は、自分流の礼拝をささげる者は神に受け入れられないことをはっきりと教えています(旧約聖書には神の定めた方法とは違う形で礼拝を捧げたがゆえに裁かれた人たちの例が多く記されています)。動機がどんなに純粋でも、努力が誠実でも、神の啓示に従って正しく、まことの神を礼拝しないなら、その礼拝を主が祝福されることはないのです。この神が受け入れない、また祝福しない礼拝を大きく4つに区分して捉えることができるでしょう。。それらは、偽りの神を礼拝すること、真の神を間違った方法で礼拝すること、真の神を自分流に礼拝すること、そして真の神を正しく礼拝しながら、その実、間違った態度をもって行うことです。
偽りの神を礼拝する
未信者は、みな偽りの神を礼拝しています(ローマ1:18-23)。その結果が悲惨なものであることはパウロがローマ1:24からあとに書いたことを見れば一目瞭然です。すべての人は、「それらのことを行えば、死罪にあたるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」(1:32)。また人は偶像などだけではなく、物質的な物を神として礼拝している事があります。生活の中で必要とする様々な事柄は神に変わって私たちの生活の中心となる、私たちがそれらのもののために生きる礼拝の対象となるのです。イエスは「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言ってこのことを私たちに教えます。ここで言われている富だけでなく、私たちは仕事、名誉、地位、教育、容姿、健康、食事、友人、家族、そして自分自身などありとあらゆるものを神に置き換わる生活の中心として、偶像礼拝を行う危険があるのです。「クリスチャンだから私は真の神を礼拝しています。」と言いながら、実はその生活の中心に神がいなければ、その人は偶像礼拝者であると言っても過言ではないのです。
真の神を間違った方法で礼拝する
イスラエルが金の子牛を礼拝したとき、彼らはイスラエルの民をエジプトから救い出した神を礼拝していました(出エジプト32:8)。しかし彼らがしたことは、彼らを救い出して下さった神を礼拝していたのではなく、偉大なる神を偶像へと引きずり下ろすということだったのです。神を現すものとして十字架を握りしめたり、イエスの像に手を合わせたり、聖書を祭ったりするならば、私たちはイスラエルの民がしたことと同じ過ちを犯しているのです。ここで私たちが特に考えなければならないことは、「偶像礼拝は、彫刻家の腕から始まるのではありません。頭の中から始まるのです。」という言葉です[2]。神は見えない方であり、私たちはその方を姿あるものとして捉えることによって、間違った礼拝を捧げることがないようにしなければなりません。
真の神を自分流に礼拝する
神はなぜ私たちにみことばを通して、主をどの様に礼拝すべきなのかという事を教えているのでしょうか?それは、私たちが神の示されたことを正しく行うことによって、神の前に正しい礼拝をささげるためなのです。これが正しい、あれが正しいと私たち独自の判断によって礼拝を行うのではなく、私たちは神がどの様な礼拝を私たちに求めておられるのかを知る必要があります。そして単に知るだけではなく、それを行っていく責任が与えられているのです。
既述の通り、礼拝するという熱意があっても正しい礼拝を捧げなければ主に受け入れられないことを私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。日本のキリスト教会でも「教会成長」に関する書籍が多く発刊され、様々な「具体的な礼拝方法」が提示されていますが、私たちは根幹的な部分で礼拝を捧げることにおいて間違いを犯さないように細心の注意を払わなければなりません。たとえ、多くの人が礼拝にやってくるようになったとしても、唯一喜ばせなければならない主が、忌み嫌うような礼拝を捧げているならば、全く意味のないことをしているのです。
真の神を正しく礼拝しながら、その実、間違った態度をもって行う
どれだけ私たちが正しい形の礼拝をしても、神が私たちの礼拝を受け入れて下さるとは限りません。問題は形、方法ではなく、心の態度なのです。イスラエルの民は、神を礼拝するにおいて、形、方法だけを守ってきました。しかし、彼らの心は神から遠く離れていたのです。そんな礼拝を神は受け入れられませんでした。その結果、イスラエルの民は神からの裁きを受けるものとなったのです。
どれだけ賛美をし、祈り、メッセージを聞き、礼拝に参加していたとしても、心の態度が主の前に正しくなければ、私たちは礼拝をしたと考えるべきではありません。心を見ている主の前で、正しい態度で礼拝を捧げることが礼拝者に求められていることなのです。
私たち人間にとって最大の必要は神を礼拝することです。神を正しく礼拝することは私たちがどのように生きていくかに大きく関わっていることなのです。そのことを次に考えていきます。
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[1] ジョン・マッカーサー著「礼拝生活の喜び」, 13.
[2] 同上, 22