「子どもに救われて欲しい。」という願いは素晴らしい願いです。人の救いを待ち望み、そのために全力を尽くして生きることは私たちクリスチャンに課せられた使命でもあります。特に幼い子どもたちに対して、彼らの心がこの世の影響を強く受ける前に、みことばから神について、また救いについて教えることは大切なことです。
しかし現代のキリスト教会において、この救いへと導きたいという強い願望は、時に人々を間違った方向へと追い立てていくことがあります。どのようにすれば人々が救いを受け入れやすくなるのかという視点から伝道を考えるがゆえに、支障をもたらすと考えられることを削除し、簡略化した救いの計画を伝える傾向が見られるのは残念ながら事実です。しかし、人々を救う力のある福音とは、単なる救いの計画ではなく、イエス・キリストに関する真理のすべてなのです。
福音を伝えるとは、単に救いの計画を明示し、信じる決心を促すことではありません。単に信じる決心をすることではなく、心も思いも意志も、その人のすべてをイエス・キリストに明け渡すことなのです。福音は救いの計画を知ることではなく、イエス・キリストとの個人的関係を持ち、主を通して神を知ることです。そのために私たちは少なくとも次の5つの事柄をしっかりと伝えなければなりません。
神の聖さを伝える
神の聖さを伝えることは、子どもたちに福音を語る上で非常に大切なことです。「神は完全に聖なる方であり、あなたはその神の前で汚れているのだ。」というメッセージは、子どもが神に対する正しい畏れを抱くために必要なメッセージです。神の愛だけが強調されるメッセージをよく耳にしますが、それは神が聖なる方であることを無視した教えとなる危険があります。「私たちが神の愛を受けるにふさわしい者である」という考え方は、聖書的に正しいものではありません。「私たちは罪のゆえに、神の前に全く価値のない者であり、聖なる神からの裁きだけが私たちにふさわしい者である」ことを子どもたちは理解しなければいけません。ソロモンは「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:4)と言いました。また伝道者の書の最後では「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者12:13)と記しています(参照:詩篇111:10; ミカ6:9; ヨブ28:28)。
神の聖さを知ること、そして完全な聖さを持つ神は完全な聖さを人に求めることを知ることは、子どもたちに絶対に必要なことなのです。聖書は次のことを教えています。

わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。 レビ11:44

すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。」 ヨシュア24:19

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。 1サムエル2:2

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。 ヘブル12:14

幼い子どもが身につけなければならないことは、主を恐れることです。それは神がどのような方であるのかを、彼らの理解できる範囲で明確に知ることから始まります。そしてこの知識は子どもが主の前に正しく歩もうとするのを助けるのです。
罪を明確にする
福音は「良い知らせ」です。この良い知らせとは、天国が無償で与えられることではなく、神の御子が罪に打ち勝ったことを指します。多くの時に福音は罪の解決をもたらすものとしてではなく、裁きから逃れるため、神が与えて下さる人生の素晴らしい計画、満足を得るための方法、人生の問題に対する答え、または無償の赦しの約束などとして伝えられることがあります。これらのことは確かに真実なのですが、あくまでも贖いの副産物であって、福音の最も重要な要素ではありません。罪の問題が軽視され、それがはっきりと伝えられない時、神からの素晴らしい祝福は、福音のメッセージ自体を安っぽいものにしてしまう可能性があるのです。
聖書は、罪を犯す人がその罪のゆえに死を受けて当然であると教えます(ヤコブ1:15; ローマ6:23)。そして聖なる神の前に裁かれて当然である罪という大きな問題を子どもたちが抱えていることを彼らが明確に知ることは、彼らが正しい信仰を持つために必要不可欠なのです。
イエスが誰なのか、何をされたのかを教える
福音はイエス・キリストが誰であり、罪人のために主が何をしたのかということに関する良い知らせです。このことを考えるに当たっていくつか本当の信仰を持つために必要な知識があります。

  1. イエスは神である(ヨハネ1:1-3, 1:14; コロサイ2:9)
  2. イエスはすべての主である(ピリピ2:9-11)
  3. イエスは人となられた(ピリピ2:6-7)
  4. イエスは完全に聖い、罪のない方である(1ペテロ2:22; 1ヨハネ3:5)
  5. イエスは私たちのためにいけにえとなられた(2コリント5:21; テトス2:14)
  6. イエスの私たちの罪の償いのために死なれた(エペソ1:7-8)
  7. イエスは十字架上で死ぬことによって救いの道を罪人のために備えた(1ペテロ2:24; コロサイ1:20)
  8. イエスは死からよみがえり、罪に打ち勝った(ローマ1:4; 1コリント15:3-4)

これらのことが明確に子どもたちに伝えられなければいけません。「分かり易く」という名の下に、水で薄められた福音を語り、子どもたちがイエス・キリストに関する正しい知識を持つことがないならば、彼らが正しい信仰を持つことは困難になるのです。それは子どもたちを助けることでは決してありません。
神が何を求めておられるかを知らせる
概念的なことを理解することが困難なこどもたちに、罪からの悔い改めを教えることは容易ではありません。しかし聖書は私たちに、救いをもたらす本物の信仰は罪からの悔い改めを含むものであることを教えています。単に「イエス様を心に受け入れる」ことや、「イエス様を信じる決心をする」ことは、本当の信仰を持つことと同じではないのです。自分が今まで信じ、信頼してきたものすべてを捨て去り、イエス・キリストのみに信頼を置いて生きていこうとする、それが本当の信仰です(ルカ9;23; ヨハネ12:26)。子どもたちに対する福音のメッセージは、大人へのメッセージと同じでなければなりません。真の救いをもたらす良い知らせは一つしかありません。子どもたちにも大人と同じように自分の罪から立ち返り、イエス・キリストを信じ従っていくことが求められているのです(使徒17:30-31)。
イエスに従う時に起こる犠牲を覚えさせる
イエスを信じ、従順に生きるということは簡単なことではありません。そこには大きな犠牲が伴います。イエスを主であるとするならば、人が仕える対象はイエス・キリスト以外にはないのです。それは自らの生涯をキリストへの信頼と従順のゆえに捨て、主のために生きることです。次のイエスの言葉を考えて下さい。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。」と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。 ルカ14:26-33

この箇所でイエスはイエスに好感を持って集まっていた群衆に対して非常に大きなチャレンジを与えています。イエスを愛する愛があまりにも大きいがゆえに、その愛と比較すれば他のものへの愛は憎しみと同等だというのです(26節)。自分の生涯を自分のために生きるのではなく主のために生きることが要求されていて(27, 33節)、その犠牲をよく考えて、理解した上で、わたしに従う決心をしなさいと求めているのです(28-33節)。
イエスは他の箇所でもイエスを信じることの重要さと、その犠牲を教えています(マタイ10:34-38等)。なぜならば十分にイエスを信じることの意味を理解して、イエスの弟子になることが大切なことだからです。それは子どもたちにとっても同じです。子どもたちに福音を伝える時、単にイエスに好感を持たせ、まるでえさで子どもを釣るかのように永遠のいのちと裁きからの解放をちらつかせ、子どもの心をキリストに向けることは正しい行為ではありません。子どもたちもその幼い理解力の中で、自らが払うべき犠牲を理解しなければならないのです。このことを割愛する時に、私たちは子どもに不十分な福音を伝えていることを覚えなければいけません。