幼い頃に教会学校などを通して信仰告白をした子どもたちが、全く教会にも来ることがなくなり、クリスチャンとしての歩みをすることなく生きている姿を見かけることがよくあります。幼い時の信仰はいったいどうなってしまったのかと疑問に抱くような行動を中学、高校を経て青年になっていく子どもたちの生涯に見る時に、子どもに対する働きに携わっている人々は、問題意識を持つはずです。ある親は罪を犯し続ける子どもたちに、幼い頃にした信仰告白を思い起こさせようとします。けれどもそのような告白をしたことさえ忘れてしまっている子どもたちがいることを私たちはどう理解すればよいのでしょうか。また逆に、不品行に身をゆだね罪に満ちた生活を送る子どもが、幼い頃にした告白ゆえに、自分がクリスチャンであることを疑うことすらないこともあります。私たちはこのような事柄をどう理解すべきでしょうか。

もし、本当に彼らが幼い頃にした信仰告白のゆえに真の救いを得ているとするならば、その子どもたちはクリスチャンとして成長していくはずです。しかし多くの子どもたちがこの当然の過程を辿ることをしません。これは非常に大きな問題です。なぜこのようなことがおこるのかをを正しく理解することは、子どもたちをどのように導いていくのかという点において非常に重要な意味を持っています。この学びの中で私たちは、福音に対する子どもの理解における問題点、子どもに福音を伝える時に起こる問題点、そして子どもに伝道する際の困難な点を明確にし、どのように子どもたちを導いていくべきなのかを考えていきたいと思います。このことを考えることを通して、私たちは子どもに正しく福音を語り、子どもの信仰を吟味し、不用意に救いの確証を与えることなく、しっかりとした信仰を持つまで導き続けることができるようになれるでしょう。

子どもと福音の理解
最初に私たちがはっきりと理解しなければいけないことは、神が働かれる時、子どもは正しい信仰を持って救われることができるということです。そして本当に救われた子どもは、神を喜ばせるために自ら進んで従順であることを追求するようになります。それ故に、福音宣教は大人だけになされるものではなく、子どもたちにもなされなければなりません。しかし、子どもたちへの働きをなしていくときに私たちが発見することは、子どもの頃の告白が成長するに当たって覆されることがあるという現実です。この場合、彼らの信仰告白は何だったのでしょう。教会学校の教師や親は、子どもの信仰告白を聞くと子どもが救われたことを喜びます。しかしその子どもがクリスチャンとしての生き方をしないのならば、私たちはこの信仰告白をどう理解すべきなのでしょう。彼らは救いを失ってしまったのでしょうか。救われているけれども罪の中に居続けることを選択しているのでしょうか。

私たちが聖書からはっきりと教えられることは、本当に救われた者は決して救いを失うことがないということであり(ヨハネ10:29; ローマ8:29-30; 他)、救われた者は継続的に罪の中を歩むことがないということです(1ヨハネ2:3-4; 他)。ヤコブが言うように、信仰を告白していながら救われた者としての行いがなければ、その信仰は人を救う信仰ではありません(ヤコブ2:14-26)。正しく福音を理解し救われた子どもは、必ず主に喜ばれる歩みをしていくようになります。しかし、このような歩みを生み出していかない子どもたちが多いのも事実なのです。

このようなことが起こる一つの原因として、子どもが持つ様々な限界をあげることができます。特に成長過程にある幼い子どもたちは、多くの分野においてその未熟さを露呈しています。そして私たちは、これらの未熟さが子どもたちの正しい福音理解を妨げ、正しい信仰を持たないようにさせていることを理解しなければいけません。特に次にあげる事柄は、子どもたちが真の信仰を持つことを困難にする要因となっています。

–知性と理解における未熟–
子どもたちは、抽象的な概念を理解することができません。それゆえに子どもは正確に神の聖さ、神の義、神の愛、神の主権、神の力を理解することが困難なのです。神に関する正しい理解のないところに、正しい信仰は生まれません。神に喜ばれる生涯は神を正しく理解しない人の上に現れるものではないのです。それゆえに箴言でソロモンは、「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」(箴言22:15)と教えています。こどもたちは継続的に自らの愚かさを指摘され、みことばに基づく理解を得ていく必要があるのです。

正しい信仰を持つためにどれだけの理解が必要であるかを具体的に示すことは困難です。しかし、神がどのような方であるか、その神の前で自分がどのような者であるか、キリストのなした業は何か、信じるとはどういうことなのかということに関する理解が不十分な時に、人は(大人であろうと子どもであろうと)自分の中で勝手に神を定義し、聖書の神に対する信仰ではなく、自らの作り出した神に対して信仰を持つのです。

子どもは抽象的な概念に対する理解が発達していないがゆえに、正しい知識に基づいて信じることが困難なのです。そしてこれは、子どもの信仰告白が覆される大きな理由の一つです。小さな子どもの脳は急激な速度で発達していきますが、8歳―9歳頃になるまで大人に比べ、十分な発達をしてはいません。特に抽象的概念の理解を考えるとそれは十代に入ってからのことになります。そしてこの事実は、子どもたちに神の真理を教えることを困難なものにします。教えられていることをすべて正しく理解することのできない子どもは、正しい理解に基づいて信仰を持つことが困難なのです。子どもたちはその考え方、話し方、そして理解力において幼いのです。これは、正しい信仰を彼らが持つために大きな障害となります。なぜならば子どもは自分の選択がどのようなものなのかを具体的に理解していないことがあるからです。

知性において未熟な子どもは、理解に欠けています。パウロは、コリントの手紙の中で「兄弟たち。ものの考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においては大人になりなさい」(1コリント14:20)と教えています。考え方において大人であることは、信仰者としての生き方において必要なだけでなく、信仰を正しく持つためにも必要なことです。それゆえに、知性における未熟は子どもが正しい信仰を持つ妨げとなることがあるのです。