大宣教命令は「弟子を作る」という命令であり、そこには伝道と教化という二つの大きな使命が含まれています。未信者に福音を伝えることも、信者に神に喜ばれる歩みを教えることもクリスチャンがしなければならない大切な働きなのです。主が求めることが何であるのかを正しく理解するために、私たちは救われた者として主の教えを学ぶ必要があります。そして、イエスは学んだ私たちが他の人々を教えることを求めているのです。では私たちはどのようにその命令を実践するべきなのでしょう。具体的に二つの方法を挙げることができます。
言葉によって教える
イエスが使った「教える」という動詞は、福音書では主に、イエスが言葉によって教えている事を指して使われています。イエスは神殿や会堂で人々に対して教えられました。イエスの説教はこの教える働きの一環でしたし、またたとえで話されたのも教える事でした。使徒たちも同じように教える働きをなしました。使徒たちは、イエスの名によって教えてはならないと命じられても、その名で教えることをやめませんでした(使徒4:18-20)。ローマで幽閉されていたパウロは、そのような状況の中でも「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」(使徒28:31)のです。
これらの表現が示すことは、彼らが言葉をもって教えていたということです。つまり、教えるためには、または教えられるためには、みことばを語り、聞く必要があるのです。このような言葉による教えは、様々な形を取ることができます。たとえば礼拝でのメッセージも教えの一つです。また信仰良書を読むこともそうでしょう。様々な奉仕や交わりの中で、ほかのクリスチャンとの会話を通して学ぶこともたくさんあります。しかし、私たちは他の人を教えることを(また他の人から教わることを)願い求め、実践していかなければならないのです。
残念ながら、私たちは人の上に立つことを願う愚かなものであるがゆえに、教えられることが苦手です。たとえ正し事を教えられていたとしても、「私は知っています。」という高慢な態度で教えられることを拒否するのです。しかし、主に喜ばれる信徒は教えられることの上手な人物です。喜んで指導の言葉を聞き、それをみことばと照らし合わせて真剣に吟味し、正しいことを実践していこうとするのです。
パウロは「知恵を尽くして互いに教え(なさい)」とすべてのクリスチャンに命じています(コロサイ3:16)。これは講壇の後ろに立って、礼拝の時にメッセージをしなさいという命令ではありません。自分の知っている聖書の真理を、他の人に言葉を使って伝えることで、相手の成長に役立つことです。イエスの大宣教命令を全うしようと願うならば、私たちは教えることのできる機会を求めて生活しなければなりません。また教えられることを喜ぶ者でなければならないのです。
行動によって教える
確かに教えは基本的に言葉を通して行われます。しかし、もう一つ重要な点があります。それは行動による教えです。単に口だけの教えではなく、クリスチャンの人生を通しての模範によって、キリストが命じたことを学んでいくのです。パウロはこのことをいくつかの箇所で次のように告げています。

ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。(1コリント4:16)

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(1コリント11:1)

兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 (ピリピ3:17)

これらの箇所でパウロが訴えていることは、パウロや信仰の成熟した者たちの生涯を模範とし、その生き方に学んで信仰者としての人生を歩むべきであるということです。上記の箇所の文脈を見ていくと、そのことがよりよく分かります。
1コリント4章で、「私にならう者になってください。」と勧めた後、パウロはテモテをこのためにコリントに送ったと言います。そしてパウロは、テモテが「私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」(1コリント4:17)と記します。 つまり、コリントの人たちがパウロのならう者になるために、彼はテモテを送ったのです。テモテは、パウロの言葉だけでなくその行動を学び、その模範に沿って生きることで、他の人がパウロに似た者になるように模範を示すことができたというのです。
1コリント11章の文脈も同じように大切なことを教えます。パウロは10章の最後に次のように告げて、「私をみ見ならってください」と求めているのです。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。 1コリント10:31-11:1

パウロはクリスチャンの自由に関しての教えをし、その結論部分としてこの言葉を語っています。彼は神の栄光を現すためにクリスチャンが生きなければならないということをコリントで過ごした18ヶ月間身をもって示していたのです。それはパウロが主を見ならう者であったからであり、それこそがクリスチャンが生きるべき姿なのです。
ヨハネは「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:6)と信徒たちに命じました。パウロはまさにそのような生き方を実践し、コリントの信徒たちに自分にならって生きるように求めたのです。
テサロニケへの手紙の中で、パウロはテサロニケの信徒たちの信仰を称賛して次のように言いました。
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(1テサロニケ1:6)

コリントの信徒たちに求めたことをテサロニケの信徒たちは実践していたのです。その結果、テサロニケのクリスチャンが「マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になった」(1テサロニケ1:7)ことをパウロは次の節で記します。彼らは主の模範にならい、パウロたちの模範にならうことによって、人々の模範となったのです。
イエスは「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:3)と言って、律法学者やパリサイ人を非難しました。彼らは口では教えていましたが、行動で教えることがなかったのです。クリスチャンはそうであってはいけません。語ることと行うことが一致するように生きるのが与えられている責任なのです。
ピリピ書の中でパウロが語った事に私たちは注意を払わなければなりません。彼は確かに「私を見ならいなさい」と命じましたが、彼は自分が完全であるとは全く考えていませんでした(ピリピ3:12-14)。彼の願いは、ただキリストに似た者となることでした。そしてその目標に向かって前に進む生き方をしているからこそ、彼は「私を見ならう者になってください。」と言ったのです。
私たちの多くは、このような言葉を発することに抵抗を感じるでしょう。あたかも自分ができているかのような印象を与え、高慢であると思われたくないがゆえに、私たちはむしろ「私を見ならわないでください。」と言うことの方が多いのです。しかし、聖書は私たちに人々の模範となる生き方をすることを要求しています。「私ではなく、主を模範としてください。」と言うのではなく、「主を模範としている私を見ならってください」と言うべきなのです。
確かに失敗を私たちは経験します。愚かさの中で罪を犯し、主に喜ばれない選択をすることもあるでしょう。たとえ具体的な罪を犯さなくても、誘惑に駆られることは日々の生活の中で多く起こることです。そのような失敗や問題の中で、どのように具体的に聖書の教えを実践し、主に喜ばれる選択をしていくのかを、人々は成熟したクリスチャンの姿から学んでいくのです。そしてこのような学びは、言葉による教えをより具体的に、時により大きな形で、学ぶ者たちに印象づけるのです。
言葉によっても、行いによっても、私たちは教えることをしなければなりません。どちらか一方では十分ではないのです。
 
最後に教える目的について考えてみましょう。一体何のためにイエスは私たちに「教えなさい」と求めたのでしょう。主の言葉に、この問いの答えを見つけることができます。これまで私たちは、何を、なぜ、どのように教えるべきなのかということを20節の言葉から考えてきましたが、これまでに触れてこなかった言葉があります。それがこの問いの答えなのです。私たちは確かにイエスが命じたことを教えなければなりません。しかし、それは知識として植え付けられるためではなく、主を信じる人々が、主の命令を「守る」ために教えられなければならないのです。
「守る」という動詞は、いくつかの違った意味で用いられることがありますが、ここでは「従う」または「固守する」といった意味でこの動詞が使われています。つまり、イエスの命令を教えるだけでなく、それをしっかりと守り行うことを教えるようにと主は命じておられるのです。この言葉を主は弟子たちに対して用い続けました。主は言うのです。
もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15)

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。 (ヨハネ14:23-24)

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 (ヨハネ15:10)

真の弟子は、イエスの言葉に忠実な者であり、彼らは主の命令を守ることによって主への愛を証明するのです。教えることの目的は、私たちが単にたくさんの命令があることを知ることではないのです。何をするべきか、何をするべきではないのかを知ることが目的なのでもありません。知っていることを実践することが目的なのです。パウロはまさにそのことを目的として人々を教えていました。彼は次のように告げています。
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。(コロサイ1:28)

パウロがみことばを伝えたのは、人々がキリストにあって完全な者となるためでした。彼らが教えられることによって、すべての面において正しく、聖く生きるようになるためだったのです。クリスチャンとして成熟した人物は、教えられることによって自らの生涯がよりキリストに似た者となります。赤子のままでいるのではなく、成熟した者として、人々に模範を示しながら生きていくようになるのです。
私たちはクリスチャンの成長のために教えることを怠ってはならないのです。みことばを通して正しい知識を得、実践を通して正しい模範を示し、人々がより主に似た者となるために働き続けなければならないのです。すべてのクリスチャンはこの教える責任を主から与えられています。その責任を果たすために、パウロ同様私たちは「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘して」いかなければならないのです(コロサイ1:29)。