大宣教命令は伝道の命令ではなく、人々を「弟子とする」命令です。そしてこの命令を全うするためには、伝道するだけではなく、教えることが必要になります。弟子たちに対して「教えなさい」と命じたイエスは、具体的に何を教えるべきなのかを彼らに明示しました。それは「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを」という言葉に表されています。これは最も狭義的に理解すれば福音書に記されているイエスの教えということになります。確かにイエスは多くのことを弟子たちに教えてきました。そして、その記録が福音書に記されています。ですから私たちは当然、イエスが実際に語った事柄を教える必要があります。
しかし、イエスが実際に語ったことだけが教えるべき内容であるかと問われれば、その答えは「否」です。イエスが教えられたことは、イエスが口にしたことだけではないのです。ルカはこのことを次のように表現して私たちに示しています。

テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。使徒1:1

ここで注目したいのは「イエスが行ない始め、教え始められた」という表現です。ルカは福音書でキリストの昇天までの記録を書き留めたのですが、ここで、使徒の働きに記されていることが、使徒たちを通してなされた「イエスが行ない始め、教え始められた」ことの継続であることを示しているのです。
また使徒の働きに記されていることだけでなく、新約聖書全体をここに含むことができます。パウロは「私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい」(1コリント14:37)とコリントの教会の人々に要求しました。ペテロは「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」(2ペテロ3:2)という表現を用いて、パウロと同じ事を教えています。新約聖書は神の霊感によって記されたものであり、それ故に「主の命令」と理解することができるのです。さらに、イエスや使徒たち、また新約聖書の著者たちが旧約聖書の権威を認め、信頼を置いていたことを考慮すると、旧約聖書に記されている真理を取り除いては、「主の命令のすべて」を教えることは不可能になるでしょう。つまり、広義的に考えるならば、聖書全体が「イエスの命じておいたすべてのこと」と理解することができるのです。
事実パウロの働きを見ると、彼が聖書全体からクリスチャンを教えたことを知ることができます。パウロは3年間のエペソ滞在期間中に、「神のご計画の全体を、余すところなく」伝えたと語っています(使徒20:27)。神の計画の全体を余すところなく伝えるには、聖書の一部だけを教えることでは不十分なのです[1]。またテモテに対して、パウロは「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(2テモテ4:2)と命じます。ここでもまた教会を導く者が果たさなければならない重大な責任として「みことば」(聖書全体)を宣べ伝えることが命じられているのです。
ですから、大宣教命令を遂行するために私たちはみことばを教えなければなりません。ではなぜ聖書を教えなければならいのでしょう。どうして教えられる必要があるのでしょう。ある人は「それは神が命令しているからだ」と答えるかもしれません。確かにその通りで、命令されているがゆえに実践しなければなりません。しかし、このことを考えるとき、聖書はいくつかの大切な理由を私たちに提示しています。それらを知ることは私たちに心からの従順を促す力となるのです。
愚かさの改善
最初に挙げることができるのは、私たちがどのような存在であるのかという事に基づいた理由です。救われる前の人間は皆、愚かさの中に生きていました。「神を神としない」(ローマ1:21)がゆえに、私たちは愚かな存在として生きていたのです(詩篇14:1)。このような愚かさの中に生きていた私たちは、霊的真理に関して全く無知な者でした。それゆえに、救われた私たちがみことばを教えられなければならないのは当然のことだと言えるでしょう。
この世の知恵が最善であると考えてきた私たちは、「神がいない」という前提に基づいて人生を設計し、あらゆる事柄を理解し、行動していました。このような前提をもって送ってきた人生は、まさに主の前では愚かさしか見いだすことのできないようなものなのです。この愚かさを改善するためには、新しい、正しい知識が必要です。これまで持っていた愚かさを、聖書的知恵で置き換えていかなければならないのです。
たとえば、これまで私たちは自分の持ち物は自分のものであると考えて生きてきましたが、神がすべてを支配し、所有していることをみことばから学ぶことによって、私たちは自分たちが所有者ではなく、与えられたものの管理者であることに気づくのです。また神が支配者であるということを学ぶことで、私たちは自分の人生を主の求める生き方で生きるべきであることを知ります。神が唯一無二であることを正しく理解すれば、神々を恐れることや、神仏を拝むことの愚かさから離れるようになるのです。
生まれながらの人間には、あらゆるところにこうした霊的愚かさを見ることができます。確かに救われる過程の中で、霊的目が開かれ、真理を知ることができるようになるのですが、救われた瞬間にすべての愚かさを完全に取り除かれるわけではありません。ですから、聖書を学ぶことによって愚かさを取り除いていくことをしなければ、私たちは今までの習慣に沿った愚かな選択をすることが多々あるのです。
みこころの理解
生まれながらの愚かさを改善する事で起こってくることは、何が正しいのかを知ることです。つまり、神が求めている事がなんなのかをしっかりと理解することです。パウロは「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」(エペソ5:17)という言葉を通して、クリスチャンが神のみこころを知るように命じています。また「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」(コロサイ1:9b)と願い求めていたことを記しています。私たちは「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」(エペソ5:10)と命じられているのです。
パウロはこのみこころが、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」ということであると告げます(ローマ12:2b)。単に愚かさから解放されるだけでなく、私たちは何が良いことで、神に喜ばれることなのかを知らなければならないのです。そして、それを教えてくれるのがみことばなのです。
確かに神の存在を正しく認めることができるようになり、私たちは生まれながらに持っていた愚かさから解放されるようになります。しかし、それだけでは神の求めていることを知り、それを実践するようにはならないのです。具体的な神の要求は、聖書の学びを通して理解することができます。これまで私たちが正しいと考えてきた事柄が、神の前では罪であることがあります。この世の規準では間違っていないことでも、主が喜ばないことがたくさんあるのです。たとえば、この世は「人がいやがることをしないように」と教えますが、主は「自分にして欲しいと思うことを人にしなさい」と要求しています。人の上に立つことがすばらしいと世は考えますが、聖書は仕えることを求めるのです[2]。
日々の生活において、私たちが神に受け入れられる行為を実践していくために、聖書は私たちに正しい知識を与えてくれるのです。それゆえに、主の教えられたことを私たちは教えられなければならないのです。
成長の糧
クリスチャンが霊的に成長していくために、聖書の学びを欠かすことはできません。ペテロはこのことを次のように記しています。
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 1ペテロ2:2

ちょうど生まれたばかりの赤子に栄養を与えなければ子どもが育つことがないのと同じように、新しく生まれたクリスチャンも正しく栄養が与えられる必要があるのです、そしてその栄養分こそが、みことばであるとペテロは言うのです。パウロもエペソの長老たちに対して、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)と言って、ペテロと同じ事を教えています。聖書は、信徒を育成するのです。
新生児は大きな喜びを家族にもたらせます。しかし、新生児は家族の助けにはなりません。同じように、新しく信仰を持った者は教会に大きな喜びをもたらせますが、その人が霊的に成長することがなければ、教会の助けにはならないのです。多くのクリスチャンが抱える問題点は、まさにこの点にあります。救われることで満足し、霊的成長を追い求めることが欠如しているのです。このような信徒の多い教会は、働き人が不足する教会です。なぜなら、いつまでたっても信徒たちが成長しないがゆえに、熱心な働き人として教会の徳を高めるために務めを果たしていかないからです。
多くの教会は、牧師や特定の熱心な信徒だけが奉仕をするという聖書的に不健康な状態にあります。たくさんの働きがあっても、働き人の顔ぶれはいつも変わらないのです。働き人が少ない教会では、牧師がその奉仕をほとんど一人で担うことすらあります。こうして牧師は奉仕に追われるがゆえにみことばの学びに時間を割くことができなくなり、深いみことばの説き明かしがメッセージでされなくなります。信徒たちはほぼ毎週のように基本的に同じ内容のメッセージを聞くことになり、彼らはいつまでも、霊的肉ではなく、霊的ミルクしか与えられなくなるのです。そのような教会が成長しないのは、当然のことでしょう。しかし、神のデザインはこのようなものではないのです。パウロは次のように記しています。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。エペソ4:11-13

教会で奉仕の働きをするのは聖徒たちであるとパウロは告げます。教会に与えられている「使徒、預言者、伝道者、そして牧師・教師」は聖徒たちを整える働きをするのです。そしてこの働きはまさに聖書が教えられることによってなされる働きです。使徒たちが「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません・・・私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:2, 4)と語ったのはまさにこのことなのです。
みことばの学びは聖徒を成長させます。基礎的な知識をマスターし、より深い神学的真理を理解するようになるとき、学び取った真理はその人の生涯を変えていき、その結果、よりキリストに似た者として歩んでいくようになるのです[3]。キリストに用いられる良いしもべとして生きるために、私たちは聖書を教えられる必要があるのです。
新生の証明
今見てきたように、愚かさを改善し、みこころを理解し、成長の糧となるがゆえに私たちは聖書を学ぶべきです。しかし、ひょっとすると最も根幹的な理由は、イエスの教えを学びたいという心からの願いが新生の証明であるからだと言えるかもしれません。イエスは「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ15:31)と告げました。救われた者は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」のです(詩篇1:2)。主のことばは、救われた者の心を喜びで満たし(詩篇19:8)、それは金よりも好ましく、蜜よりも甘いのです(詩篇19:10)。救われた者は、「あなたのおきてを私に教えてください」(詩篇119:12)と願い、「私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(詩篇119:18)と求めるのです。詩篇119篇の著者は「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。」と何度も求めています(119:12, 26, 33, 64, 66, 68, 108, 124, 135, 171)。これこそ、救われた者の願望なのです。
主が求めていることを知り、それを実践していきたいという願いは、救われた者だけが持つことができる願望です。神に喜ばれる人生を歩みたいという願いは、救いの証明なのです。そして、それはみことばへの渇望に顕著に現れます。この渇望は必ずみことばを学ぶという具体的な形として、クリスチャンの生涯に現れるのです。
———————————————–
[1] パウロは明らかに旧約聖書のすべての箇所を一節一節、こと細かに解説したわけではありませんでした(3年間では不可能な作業でしょう)。しかし、彼はあらゆる重要な事柄を、啓示の最初から最後に至るまでしっかりと教えたということを現しています。
[2] 私たちの良心は、何が正しいかの規準として私たちは責めたり、認めたりします。これは生まれながらの人間にも備えられている神からのすばらしい恵みの賜物です。この心に記された律法は確かに私たちを助けます。しかし、残念ながらこの良心さえも罪のゆえに堕落したものであることを私たちは忘れてはなりません。罪を犯し続けるがゆえに私たちの良心は麻痺することもあります。ですから良心も、みことばの真理によって教えられる必要があるのです。
[3] 神学は単なる学問ではありません。神学は人を変えるものです。もし知識だけたくさん持っていたとしても、その知識が人を変えることがなければ、それは単に人を高慢にさせるだけであって、その人をキリストに似た者に成長させるものではありません。みことばは聞くだけのものではなく、聞いて実践するものなのです。より深い知識は、人をより謙遜にさせます。なぜならその人は神がいかに偉大な方であるのか、そして人がいかに罪深い者であるのかをよく知るがゆえに、決して高慢になることができないからです。このように人を変える知識を私たちは身につけなければならないのです。