福音が正しく語られ、真の信仰によって人が救われるためにクリスチャンは熱心に働きを続けていかなければなりません。しかし、イエスが主に従う者たちに命じた命令は、伝道をすることだけではありませんでした。イエスが「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)と命じたように、大宣教命令には伝道をすることだけでなく、救われた人を教えるという内容が含まれているのです。

クリスチャン人口の少ない日本において、教会は伝道に重きを置きます。なんとかして多くの人に救いのメッセージを伝え、彼らが信仰を持つことができるようにと熱心に働きかけます。しかし、そのことだけにあまりにも焦点が置かれていて、大宣教命令が単なる伝道の命令として捉えられることがあります。このような教会では、ある人が救われるまでは非常に熱心なケアがされますが、ひとたび信仰を告白し、バプテスマを受けると、次のプロジェクトに移っていくかのごとく他の人へと焦点が変わっていくのです。新しく信仰を持った人は、自分がクリスチャンとしてどのような歩みをしていくべきなのかということを具体的に学ぶことなく、一人でこの世の流れに立ち向かわなければならなくなります。「救われたのだからそれで十分である」と考えられているかのごとく、新しい信徒たちはその状態で放置されてしまうのです。

これは教会の中で起こる最も大きな悲劇の一つと言うことができるでしょう。なぜなら救われた人たちは、新しく生まれ変わりはしたものの、具体的にどのようにこの新しいいのちに基づいて生きていったら良いのかを知らないままこの世での生涯を生き続けなければならないからです。まるで生まれたばかりの状態で放置されてしまった赤子のように、彼らの生涯は正しい、良い成長を期待できるものではありません。これまでと違う世界観に基づいて、主に従順に生きていかなければならないということが分かっていたとしても、それをどのように実践していったらよいのかを全く知らなければ、決して成長を遂げていくことはできないのです。その結果、多くのクリスチャンは世の人々とそれほど違いのない人生を送り、霊的に未熟な状態で留まり続けてしまいます。罪を犯すことを嫌いながらも、その罪から離れていくすべを身につけていないので、罪を犯し続ける自分に対する嫌悪のゆえに、落胆に満ちたクリスチャン生涯を送ることになるのです。このようなクリスチャンは、当然のごとく魅力的ではありません。そして、このようなクリスチャンの周りにいる未信者は、クリスチャンになるべき理由を彼らのうちに見いだすことはできないのです。

救われたクリスチャンがみことばによって成長していくことは、クリスチャン生活において必要不可欠なことです。それ故に主は「教えなさい」ということを大宣教命令の一部としているのです。神は霊的に成熟した者たちが他の者たちを教えることを命じています。教会のリーダーである長老・監督・牧師は、「教える能力」があり(1テモテ3:2)、「健全な教えをもって[人々を]励ましたり、反対する者を正したりすることができる」(テトス1:9)ことがこうした職に就くことができる条件となっています。それはキリストが教会に賜物として与えた教えることのできる成熟した者たちを通して、教会を建て上げることを計画されているからです(エペソ4:11-15)。

教会のリーダーだけでなく、全てのクリスチャンはみことばを「豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」ることが命じられています(エペソ3:16)。パウロは信徒たちが「善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができること」を確信していました(ローマ15:14)。確かに聖書は「多くの者が教師になってはいけません」(ヤコブ3:1)と言いますが、同時に男性は妻や子どもたちを教え、女性は若い婦人たちを教え、すべての信徒は大宣教命令を実践するために教えることが命じられています。これは単に知識を身につけることだけではなく、身につけた知識に基づいて成熟したクリスチャンになることを意味しているのです。

パウロはテモテに「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」と命じました(2テモテ2:2)。ここには教会のリーダーの大切な務めが記されています。パウロからテモテ、テモテから「忠実な者たち」、「忠実な者たち」から「他の人」へと4世代に渡って教えの働きが継承されていくことが記されています。これはこの4世代で終わってしまう者ではありません。なぜなら他の人にも教える力のある忠実な人は、その忠実さのゆえに、同じように他の人にも教えることのできる者たちへとこの働きを継承していくからです。

確かに絶対的な人数は少ないかもしれませんが、主は日本に救いをもたらす真の信仰を持つ者を与えてくださっています。事実日本にも多くの教会が存在し、多くのクリスチャンが今もそこに集っています。しかし、そのクリスチャンたちの霊的平均年齢が何歳だということができるでしょう?「クリスチャンの成熟度はどのようなものか?」という問いかけに私たちはどのように答えることができるでしょう?霊的未熟さのゆえに、クリスチャンに期待される勝利にあふれた生活を送ることができず、罪との葛藤の中で敗北を経験し続け、落胆に満ちた生涯を送る者たちの方が多いということはないでしょうか?

パウロは教会が牧師たち・教師たちによって教えられることによって建て上げられることを告げた後で、このように語ります。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-–15)

みことばという基礎に堅く立ち、どのような教えにも惑わされることなく、キリストに似た者としてこの地上での生涯を神の栄光を現しながら感謝と喜びにあふれて歩んでいくために、クリスチャンは教えること・教えられることにもっと熱心にならなければならないのです。そして成熟した信徒としての歩みをなしていく時に、私たちはますます伝道の働きに熱心になり、救われた者としてのすばらしさを言葉、行動、態度を通して大胆に証しするがゆえに、より用いられる者となっていくのです。