真の信仰は行いと共に働く信仰であることをアブラハムの例を通して告げたヤコブは、旧約聖書に登場するもう一人の人物の信仰から、真の信仰は口先だけのものではなく、具体的な行動によってしっかりと示されるものであることを教えます。ヤコブが伝えようとすることを正しく理解するために、詳しく2:24–26の言葉を考えてみましょう。
具体的な例を挙げて真の信仰の姿を示す前に、ヤコブはいったんまとめとなる言葉を24節で記しています。この「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」という文は、キリスト教会の中で誤解されていることが多々あります。この節で問題になることは、ヤコブが加えている「だけ」という副詞です。ある牧師はこの言葉を説明するに当たって次のように記しています。

この副詞は、「信仰」ということばのみを修飾しているのではなく、後半の「信仰による」という句全体を修飾しているのである。したがって、原文に最も忠実に訳すと、「人は行いによっても義と認められるのであって、信仰によるだけではないことが分かるでしょう。」となる。つまり、ヤコブが言っているのは、「信仰による義以外に、もう一つ別の義もある」ということである[1]。

確かにこのように理解することは不可能なことではありません。しかし、問題はこの解釈がヤコブの語ろうとしていることに一致するかということです。上記のような理解は、ここで記されているように、信仰と行いが別々のものとして機能し、義をもたらせています。しかし、ヤコブは一貫して信仰が行いをもたらすという事を語ってきているのです。ここでヤコブが語っていることは二つの義があるという話ではありません。行いなしの信仰 (「信仰だけ」) では、義と認められているという証明にはならないと告げているのです。
ヤコブが語っていることは、行いが救いをもたらすということではありません。これはユダヤ主義の考えです。信仰と行いによって救いが与えられるということでもありません。これはカトリック教会の考えです。またヤコブは、信仰が「救いだけ」をもたらすとも教えていません。多くの現代の教会が教えているような、安易な信仰を唱えているのではないのです。ヤコブが語っているのは、信仰は救いと行いを生み出すということです。聖書は私たちに、信仰によってのみ人は救われると教えています。しかし、この信仰は必ず霊的な実を生み出す、行いの伴う信仰なのです。
このことをさらに明確にするためにヤコブは二番目の例であるラハブに関して次のように記します。

同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。ヤコブ2:25-26

なぜヤコブはアブラハムの例だけで終わることをせず、ラハブを例に挙げているのでしょう?偉大なるユダヤ人の父と汚れた異邦人の女、すばらしいリーダーとふつうの女性、社会的エリートと社会的堕落者、挙げればきりがないほどのあまりにも不釣り合いな二人が、ここで同じ事を証明するために例としてあげられているのです。ラハブは異邦人で売春婦でありながら、アブラハムやほかの偉大な信仰者と共に、ヘブル11章の信仰の勇者の中の一人として数えられているだけでなく、彼女はイエスの系図に主の祖先の一人として名を連ねています。
彼女の信仰に関しては非常にわずかなことしか私たちには分かりません。聖書全体が私たちに証言することは彼女が信仰者であり、神の民に数えられているということです。ヤコブもここで彼女の信仰に関して具体的に触れることをしていません。ですから、彼女の信仰に関して明確に知ることができるのは、ヨシュア記に記されているラハブの告白を見ること以外にはないのです。そこには次のような言葉が記されています。
主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」ヨシュア2:9-13

ほかの箇所が彼女の信仰について言及していなければ、ラハブの言葉は単なる保身の言葉と考えることができるかもしれませんが、この告白に基づいて彼女の信仰と行為が称賛されていることを考えると、この宣言は主に喜ばれる真の信仰告白であったと考えるべきでしょう。このときラハブは明らかに救いに関する明確な真理を理解していませんでした。しかし彼女は神がどのような方であるのかを確かに理解し(ヨシュア2:11)、その神の前に跪き、降伏する心を持っていたのです。主はこのような彼女の心を喜んだだけでなく、彼女は自分に降りかかるだろう問題を恐れずに、イスラエルの斥候をかくまい、彼らを助けた彼女の信仰に基づいてとった行動をも喜び受け入れたのです(参照: ヨシュア6:17; ヘブル11:31)。
アブラハム同様、彼女も完全な行いを持っていませんでした。彼女の生涯は罪に満ち、イスラエルの斥候たちを逃すために取った彼女の手段さえも、偽りに満ちたものでした。しかし、彼女がエリコの王ではなく、まことの主に従ったその行為は、まさに神によって義と認められた者が持つ真の信仰によって生み出されたものだということをヤコブは訴えているのです[2]。アブラハムもラハブもどちらも自分に取って最も大切なものを主のために喜んで犠牲とする信仰の実践によって、自らの信仰が本物であることを証明したのです。このような信仰こそが唯一役に立つ、むなしくない信仰なのです。
イエスは次のように教えることによって同じ事を人々に訴えていました。
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。マタイ10:32–39

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。ルカ14:26–27

真の信仰は、何よりも主を第一とする生涯を生み出します。完全でない私たちは、時に自分の喜びを求めるがゆえに正しくない選択をし、良い実を100%実らせ続けることが困難な者です。しかし「良い木が悪い実をならせることはできないし、悪い木が良い実を実らせることもできません。」(マタイ7:18)。ですから、真の信仰を持つ者は、必ず正しい行いという実を実らせる者になるのです。
このセクションをまとめるに当たって、ヤコブは「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(2:26)と言います。新改訳では省かれていますが、この節の文頭には「なぜなら」という言葉が記されています。そして25節は原文では修辞疑問文で、骨格部分だけを訳すと、「ラハブも行いによって義と証明されませんでしたか?」となります。この疑問文の答えは、「そうです。行いによって義と証明されました。」です。そして、なぜそのように行いによって、義であることが証明されたのかということを26節でヤコブは解説しているのです。
ヤコブが解説することは難しい事ではありません。「たましい」と訳されている単語は「霊」または「息」と訳すことができる言葉で、新約聖書では外なる人(肉)に対比して存在する内なる人(霊)を指して使われる概念です[3]。からだを「命あるもの」とするのはそこに息があるからです。もし息がなければそれは死んだものであり、命ある者として存在することはありません。ヤコブはまさにこのような息をすることのない死体が、行いのない信仰であると言うのです。ヤコブは行いの伴わない信仰をたましいのない肉体になぞらえて、どちらもいのちを持たないものであることを告げているのです。
真の信仰の姿とは、生きて行う信仰です。信仰は単独では存在し得ないのです。真の信仰のあるところには必ず主に喜ばれる良い行いが実ります。だから、イエスは教会戒規の規準として悔い改めることなく罪の中にとどまる事を挙げ(マタイ18:15-20)、主のみこころを行わない者に「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)と宣言するのです。ヨハネは同様に、「神のうちにとどまっているという者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Ⅰヨハネ2:6)と告げます。そういう歩みがなければ、とどまっているという告白が偽りであると教えているのです。
正しい福音を正しい信仰をもって信じた人物は、正しい生き方を生み出していきます。その歩みはキリストが歩まれたような歩みとなるのです。ひょっとすると現代のキリスト教会は死人安置所になってしまっているかもしれません。過去にあった信仰告白にしがみついて、キリスト者にふさわしい実を一切結ばない人生を送りながら、「私はクリスチャンです!」と叫び続ける人たちがあまりにも多すぎるのです。「行いのないあなたの信仰を見せてください。私は行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげましょう。」とヤコブは彼らにチャレンジするのです。
 
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[1] 高木慶太著、「信じるだけで救われるか」、152頁。
[2] ヨシュア2:13のラハブの言葉から分かるように、王の命令に背いて斥候を逃した行為は、彼女だけでなく彼女の一族全体に死をもたらす行為であったことをラハブは認識していたのです。
[3] ひょっとするとヤコブはここで創世記2:17を念頭に置いていたかもしれません。