役に立たない、むなしい信仰について厳しい指摘をしたヤコブは、21節からこれまでの非難をに基づいて、「行いによって見ることができる信仰」を具体的な例を挙げて説明していきます。時にここで述べられていることが、パウロが告げていることに矛盾するかのように捉えられることがありますが、それは大きな誤解です。詳細を見ていけばはっきりと分かることですが、パウロとヤコブは信仰を語るときに二つの異なった視点から話をしています。パウロは救われていない人が救いを得るに当たっての信仰について話をし、ヤコブは救われた者が持っているべき信仰に関して話をしているのです。このことを頭に置いて、真の信仰の姿を観察してみましょう。

行いと共に働く信仰
最初にヤコブはアブラハムの例を挙げて、行いと信仰の関係を明確にします。彼がここで記していることは創世記22章の出来事です。ヤコブは次のように記します。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。ヤコブ2:21-23

ここで最も興味深いことは、アブラハムがイサクをささげたときに彼が義と認められたと記していることでしょう。そして私たちがしっかりと理解しなければいけないのは、この節と23節の「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という文の関係です。
私たちが最初に理解しておくべき事は、ヤコブが訴えていることが「信仰による義認」の否定ではないということです。ヤコブは「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来る」(ヤコブ1:17)と告げ、「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになになった」(1:18)と理解していました。事実23節の引用は、アブラハムがイサクをささげる前に、神が彼の信仰のゆえに義とみなしたことを認める発言なのです。では、信仰によって義とみなされたはずのアブラハムはどうして行いによって義と認められたのでしょう。
そのことを理解するに当たって私たちはこの「義と認める」という動詞を正しく知らなければなりません。この動詞には大きく2つの意味、「義と宣言する」または「義とみなす」という意味と、「義と証明する」、「立証する」という意味があります。たとえばローマ書でパウロが「信仰によって義と認められた」(ローマ5:1)と言うとき、彼は前者の意味でこの言葉を使っています。しかし、同時にイエスはこの同じ単語を使って、「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」(ルカ7:35)と言ってこの動詞を立証するという意味で使うのです。
ヤコブが21節で「義と認められた」と言ったとき、彼は後者の意味でこの言葉を用いたのです。つまり、アブラハムはイサクを捧げたことによって義と宣言されたのではなく、この行為によって彼の義が証明されたと言っているのです。何十年も前にアブラハムが神の約束を信じたことによって、すでに彼は神から義と認められていました(創世記15:6)。これは彼の信仰がもたらせたことです。そして、この「義とされた」ということの究極的立証が、最愛の息子を捧げるという行為によって現されているのだとヤコブは告げているのです。
イサクをささげることには、間違いなく大きな抵抗があったでしょう。これは単に誰よりも大切に思っていた最愛の息子を殺すという命令でした。そしてこの行為はアブラハムの実子を通して祝福を与えるという神の約束を破棄しかねないものだったのです。しかし、そのような中でもアブラハムは神に対する信仰を失うことなく、この信仰に基づいて行動を起こしました。彼は疑ったり、迷ったりすることなく、啓示があった翌朝早くに神が示した場所へと旅立ったのです。ヘブル人の手紙の著者はこのときのアブラハムの心境を次のように説明しています。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせこともできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。ヘブル11:17-19

神の約束を信頼し、神の計画を信頼し、神の力に信頼し、アブラハムは不可能と思えることをなしたのです。アブラハムは完全な信仰を持っていませんでした。また彼は完全な行いをも持っていませんでした。彼は約束が与えられているにもかかわらず、自分の知恵と力で子孫を残そうとしてイシュマエルをもうけました。また彼は自分の保身のために妻を妹と言って、嘘をつくことすらありました。これらは彼の信仰を立証するものではありませんでしたが、ヤコブは「アブラハムの生涯は多くの正しい行いによってその信仰を立証している」と言うのです。特にこのイサクをささげるという行為がそれを何よりも証していると告げているのです。
人を義とするのは信仰によってのみ可能なことです。しかし、その信仰は常に与えられた義を現して存在します。ヤコブはそのことを22節で説明します。「信仰は行いとともに働いた」とありますが、この動詞は過去における継続的状態を表す動詞で、常に信仰の行いが彼の生涯に現れるように信仰が働き続けていた様子を現しています[1]。そしてこの信仰は、「行いによって全うされた」とヤコブは続けます。これも決して行いが不十分な信仰を補うといった意味ではなく、真の信仰は行いの存在によってその信仰が本物であることが証明されていることを教えているのです。
創世記15章で告げられた義の宣言は、22章でアブラハムがイサクをささげることによって現実のものであることが証明されました。この行為は、彼がまさに「神の友」であることを立証したのです。ヨハネは「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることが分かります。」(Ⅰヨハネ2:3)と記します。イエスは「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:14)と言います。行いを伴う信仰こそが真の信仰の姿であり、このような行いが生み出されているときに、人は神の友であることを認めることができるのです。
ヤコブ4:4には「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」という衝撃的な言葉が記されています。ヤコブはここで、クリスチャンが持つことができる二つの愛情の対象を挙げています。これはイエスが山上の説教の中で告げた「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)の解説と言っても過言ではないでしょう。神を愛する者は、神を喜ばせようと心から願う信仰を持っています。たとえ求められていることが人間的に見て理不尽なことであったとしても、人々から嘲笑されるようなことであったとしても、あらゆる状況の中で神を信頼する真の信仰者は常に主の望むこと、主が命じることを心から実践していこうと願い生きて行くのです。アブラハムを筆頭に、全ての信仰者は神に対して忠実に生きることを通して自分たちの信仰を明らかにしてきました。そのような信仰こそが、唯一有益で、むなしくない真の信仰なのです。
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[1] 「行い」は原文では複数形の単語が使われています。つまり、アブラハムの行いの数々は、信仰がともに働いて行う信仰をもたらせ続けていたのです。イサクをささげたという行為はそれらの一つなのです。