「行いのないの伴わない信仰は役に立たない信仰である」とヤコブは告げました。これは単に「信じさえすれば、救われる」と考える者たちにとっては衝撃的な言葉かもしれません。確かに人は「信仰によってのみ」救いを得ることができます。永遠のいのちを得るに当たって、人の行いは何の益ももたらさない、必要のないものです。しかし、この「信仰」にも救いをもたらす「役に立つ信仰」と、救いをもたらさない「役に立たない信仰」があることをヤコブは明確に示しているのです。ヤコブの手紙2章は、この救いをもたらす本物の信仰と、救いをもたらさない信仰の違いについて言及します。別の言い方をすれば、信仰を告白する者が皆、必ずしも救われているわけではないとヤコブは告げるのです。救いをもたらす役に立つ信仰は、救われた者を「キリストに似た者」に変える働きをします。救いをもたらす信仰は「御霊の実」を生み出します。それゆえに真の信仰を持つ人は、救われる前の生き方と違う生き方をするようになるのです。

ヤコブは役に立たない信仰について話をした後、このような役に立たない信仰のむなしさについて書き記します。「むなしい信仰」とはどのようなものなのでしょう?ヤコブの言葉を注意深く考えて行きましょう。

むなしい信仰

ヤコブは18節で一つの会話を記します。ここでは「行いのない信仰」を主張する人に対する反論が記されています[1]。ここでの言葉は皮肉に満ちた言葉です。「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」とヤコブは記しています。人は一体どうやって信仰という無形のものを人に見せることができるのでしょう?ヤコブの言わんとしていることは、真の信仰は必ずその存在を行いによって証明するということです。役に立つ信仰は、必ず行いを生み出すと言っているのです。

ヤコブが言っていることはイエスが何度も弟子たちに告げたことでした。ルカはイエスの言葉を次のように書き留めています。

なぜ、わたしを「主よ、主よ。」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。ルカ6:46-49

イエスがここで話していることは、まさにヤコブが記していることです。マタイ7:24–27にも平行箇所がありますが、イエスの関心は、主の言葉を聞いても行わない者たちの救いです。土台のない家が洪水で簡単に押し流されてしまうように、聞き従う生涯のない告白は、立ち続けるものではないことが教えられているのです[2]。ペテロも同じように次の事を記しています。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。Ⅱペテロ1:3-11

真の信仰はその存在の証明となる良い行いを生み出します。そしてそれこそが私たちの救いの確信をもたらすのです。現代の教会には多くの「信じている」人が存在します。しかし、残念ながらその信仰を具体的な形で見ることができない人が多いのです。彼らは皆、口をそろえて「私はイエスが救い主であると信じています。」と告白します。彼らは間違った選択を主の前になし、主に喜ばれない行動を取っていたとしても、「でも、私は主を信じたから救われているのです。」と思い込んでいます。継続的に主の言葉に逆らう選択をし続けていても「信仰を持っているから大丈夫だ」という安堵のうちにいるのです。

確かに、聖書は聖徒の堅忍を教えています。救いを受けた者は決してその救いを失うことはありません[3]。ですから確かに信仰によって救われたならば、「大丈夫だ」と言うことができるでしょう。しかし、問題は「本当に救われたのか」ということです。人は救われていると誤信することができるのです。「イエスを信じる信仰によって人を救う」という神の約束を疑う必要はありません。「一度救われたら、常に救われている」ということに疑問を持つ必要は一切ないのです。しかし救いの確信は、私たちが信仰を告白したことに基づくのでも、信じていると強く思い込むことによるのでもないのです。

聖書は救いの確信は聖霊が与えるものであると教えます。パウロはこのことに関して、こう説明します。

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。ローマ8:14-16

聖霊によって導かれ、聖霊によって神を「父よ」と言って慕い、聖霊によって私たちは絶対的な確信に基づいて、「私は確かに神によって贖われた神の子どもである」という確信を持つようになるのです。これは単なる内面的、主観的感情ではありません。御霊に導かれるがゆえに実らせる御霊の実や神への心からの渇望が、このことを証明するのです。

どれだけ正しい知識を持っていたとしても、聖霊の与える新生の証明なしに救いを確信することはできません。そして、このような正しい根拠のない信仰の確信ほどむなしいものはないのです。このことをヤコブは、皮肉を込めて書きつづっています。

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。ヤコブ2:19-20

ヤコブは旧約聖書の真理の中でも最も根幹的真理と呼ぶことができる申命記6:4の言葉を使って行いのない信仰のむなしさを証明しています。神が唯一無二の方であることを信じることは、間違ったことではありません。しかし、それだけでは何の意味もないことを彼は告げているのです。モーセが告げたこの申命記の言葉は、次のように続きます。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。申命記6:4-5

神がひとりであることを信じたとしても、5節の命令に従うことがなければ、その信仰は何の意味も持たないむなしいものなのです。ではいったいどれくらいむなしいものなのでしょう。ヤコブの言葉は、行いのない信仰を主張する人たちにとって驚愕の宣告となります。彼はそのような信仰は悪霊の持っている信仰と同じであるというのです。

確かに悪霊たちは神がどのような方なのかをよく理解しています。教理的に見れば、彼らの信仰は、一神教の信仰であり、聖書が神のことばであることを知っています。彼らはイエスが誰なのかも、何をなさったのかもよく理解してます。救いが恵みによって信仰を通して与えられることも知っています。神の権威も、イエスの主権も彼らは正しく理解しているのです。しかし、彼らは申命記6:5のみことばを実践することがありません。なぜなら彼らはそれらのことを確かに知りながら、決して神を愛そうとはせず、むしろ主を憎み逆らうことを選択するからです。

ヤコブは彼らがこのような正統な教理を「信じて、身震いしている。」と言います。ここで使われている「身震いする」という動詞は、大きな恐れのゆえに毛が逆立ち、震えおののく様子を現しています。悪霊たちは神がどのような方かという真理を理解しているがゆえに、震えているのです。では、このような恐れが彼らに救いをもたらせるのでしょうか。このような真理に対する同意が、彼らを永遠の刑罰から逃れさせるのでしょうか。

20節に記されているヤコブの言葉がすべてを物語っています。「ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」という言葉は、このような信仰が悪霊たちが持つ信仰に類似したものであり[4]、決して人を救いに入れる信仰ではないことを明言しているのです。「むなしい」という単語は、「働き」という名詞に否定形の接頭辞が付けられてできている単語です。同じ単語が2ペテロ1:8では「役に立たない」、マタイ20章では「何もしない」と訳されています。どれだけ伝統的なキリスト教信仰を持っていると言っても、もしその信仰に行いが伴わないなら、それは「役に立たない、何もしない、むなしい」信仰なのです[5]。

ヤコブは20節で14節からの言葉をいったんまとめます。行いの伴わない信仰でも救いを得ることができると主張する人たちは、この箇所が救いの有無に関して話をしているという考え方を否定します。しかし、ヤコブの言葉はどれだけ巧みに問題を避けようとしても、避けきれないほどに明確なものです。彼は行いのない信仰が役に立たず(14節)、死んだものであり(17節)、そしてむなしいものである(20節)と告げました。このような信仰が「その人を救うことができるでしょうか」と14節で問いかけるのは、救いが問題となっているからです。事実ヤコブが語っていることは、2:1–13の続きです。そこではクリスチャンであると言っている教会の人たちが、クリスチャンではないような行動をしていることが取り上げられています。そして、そのような行動をしていたとしても、私には信仰があるから救われているのだと主張する人たちに対して、ヤコブは厳しい批判の言葉を告げているのです。ここで使われている「信仰」という言葉も、元は「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」(2:1)という文面からの流れを受けて使われています。ヤコブは主を信じる信仰がいかに人をえこひいきするという行為と相容れないものなのかを告げているのです。また4節では、クリスチャンが信仰のうちに富む者となり、御国を相続する者とされたことが記されています[6]。ここでも信仰が救いとの関連において話されていて、けっして道徳的な事柄を表現しようとしているのではないことが分かります[7]。真の信仰は、必ず行いを伴ってその信仰を証明するのです。

私たちは救いの確信を持たずに、いつも「私は救われているのだろうか?」と悩みながら不安の中で生きる必要はありません。真の信仰を持つものは、聖霊の働きによって必ず救いの確信を得ることができるのです。聖霊は私たちに新しい願いを与え、新しい生き方をもたらし、キリストに似た者となるように私たちの内にあって働いてくださるのです。

むなしい信仰を持つことほど悲しいことはありません。信じていると思い込んでいても、その信仰が救いをもたらさない信仰であるならば、それほど悲しいことはありません。ヤコブは私たちに信仰の吟味を迫ります。「あなたは行いの伴う信仰を持っていますか?」と問いかけているのです。エペソ2:10にあるように、恵みのゆえに信仰によって救われた者は「神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」それゆえに私たちは本当にこのような「良い行いをする」者に変わり続けているかを吟味しなければならないのです。

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[1] 18節の会話部分はヤコブの手紙の中でも解釈の難しい箇所の一つです。新改訳聖書はここで意訳をすることによって意味を明瞭にしようとしています。ヤコブは自分を三人称に置き換えて、自分が行いのある者であるかのような印象を避けようとしているのです。

[2] ヤコブ1:22–25でヤコブは「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」と記します。これはイエスが告げていることの解説だと考えることもできるでしょう。

[3] 神の一方的な働きによって与えられてた救いは、人間のいかなる行為によっても取り去られることはないのです。

[4] ここで、私たちはよく考える必要があります。悪霊たちは神の真理を理解して、主の前に恐れおののいています。これは真理を理解したという者の持つべき正しい反応です。しかし、私たち人間は本当にこのような恐れを主の前に抱いているのでしょうか。この点においてひょっとすると私たち人間は、悪霊たちよりもひどい状況にあると考えることができるように思います。

[5] ここでは非常に覚えやすい表現が使われています。原文は「行い(働き)のない信仰は行わない(働かない)」と訳すことができます。

[6] 新改訳では「信仰に富む者」と訳されているので、信仰が豊かになったかのように見えますが、原文は「信仰のうちに(または信仰という場所において)富む者となった」として、この世において貧しくても、信仰において富んでいる人物を現していることを表現しています。つまり、御国を受けているがゆえに彼らは富んでいるのです。

[7] ある人々は、文脈の中でえこひいきをしたり、貧しい人に施さないと言うことが記されているがゆえに、役に立たない信仰とは貧しい兄弟姉妹の役に立たない(道徳的に十分でない)信仰だと訴えていますが、正しく文脈を理解するとき、そのような解釈が不可能なことが分かります。