真の信仰とはどのようなものなのでしょう。私たちはそのことを正しく理解しておく必要があります。誰でも「自分は救われている」と思い込むことはできますが、どれだけ熱心にそのことを思い込んでいたとしても、真の信仰を持っていなければ、それはむなしい事でしかありません。聖書は救いに至る真の信仰を持つ時、人は「新しく生まれ」(ヨハネ3:3–15)、「新しく造られ」(2コリント5:17)、それは「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ2:10)ことを教えます。つまり、救いに至る真の信仰は、その姿を確かに実生活の中に現す信仰なのです。では真の信仰を持った人はどのような生き方をしていくのでしょう。
このことに関して、ヤコブははっきりと次のように告げています。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。ヤコブ2:14-26

ヤコブはここに記されている言葉を通して、私たちに真の信仰とはどのようなものであるのかを教えています。目に見えない信仰が、具体的な形で現されることを教えているのです。ですからここに記されていることを正しく理解することを通して、真の信仰の姿を考えていきましょう。

役に立たない信仰

ヤコブはまず最初に私たちに主題を説明します。疑問文で現されるこの主題は、原文では「何の役に立ちましょう」という言葉で始まります。16節でも使われている「役に立つ」と訳されている単語は、1コリント15:32では「益となる」と訳されています。つまり、ヤコブはここで「何が益ですか?」と問いかけているのです。では、何に関して益があるのかと問いかけているのでしょう。それが仮定法を使った二つの文で表現されているのです。
偽りの告白
最初の訴えは、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。」というものです。ここで言及されている行いは、救いを得るために人がなす様々な善行の話ではありません。救われた(と言う)人が持っているべき行いの話です。注目するべき事は、現在形の動詞が使われているという事実でしょう。継続的告白をしながらも、継続的行いの欠如を示している人物について言及されているのです。しかも、原文を見るとそこにある特異な語順に関心が向けられます[1]。ヤコブは意図的に単語を配置することによって、強調しようとしている二つの事柄(信仰と行い)を明確にしているのです。
「信仰を持っているという告白をしていたとしても、その人に行いが欠落していたら、何が益ですか?」とヤコブは問いただします。この質問の回答が分からなかったから聞いていたのではありません。彼にも、そして読者たちにもその答えは明確なものだったのです。さらにヤコブはあえて次の質問をします。これも修辞疑問で、答えは明らかに知らしめられているものです。「そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」この問いの答えは、「そのような信仰はその人を救うことができません。」です[2]。ヤコブが訴えていることは、「信仰だけでは人は救われない」ではありません。「行いの生み出さない、告白だけの信仰では救われない」ということです。このような信仰は人を救うことができないのです。
偽りの思いやり
二番目の仮定文は、具体的な例を挙げて次の2節で描かれています。ヤコブはここで、思いやりの言葉が思いやりの行為なしで与えられていることの無利益さを言い表しています。この貧困の中にいる兄弟または姉妹は、継続的にこのような状態に置かれていることが原文では示唆されています。またこの人物は単に服がないだけでなく、必要な食事を得ることもできないような状況であることが記されています。つまり、日々の生活にも困っているような人たちの事を指しているのです。
このような人物に対して語っている言葉は、あまりにも不条理な発言であることに私たちは気づかなければなりません。この人にとって必要な着物や食事を与えることをせずに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と語りかける姿は、まさに人を思いやる心の欠如を現しているからです。通常、何も与えない人は、思いやりのなさを現さないように必要のある人から目をそらし、決してこのような言葉を発することをしません。しかし、この人は自分で与える気持ちが一切ないにもかかわらず、優しそうな言葉だけを告げているのです。「安心して行きなさい。」は、神の祝福があるようにという言葉と同義です。しかし、この人物はその祝福を与えるために用いられようとはしていないのです。またさらに、「暖かになり、十分に食べなさい。」という言葉は、「暖かにされ、食事を与えられなさい」と訳すことができる表現が使われています。つまり、「誰か他の人にしてもらいなさい」と言っているのです。ヨハネは同じような状況を例に挙げて、次のように記しています。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 Ⅰヨハネ3:17

必要なものを与えないこの人の言葉は、一体何の役に立つのでしょう。ヤコブはこれが、行いの伴わない信仰と同じであると宣告します。そしてこのような信仰は「無益な信仰」であり、「死んだもの」なのです。
ヤコブが問いただしていることが「救いを得るために必要なこと」ではないということを私たちは正しく理解しておかなければなりません。ヤコブも私たちが救われることにおいて、完全に神に依存しなければならいことを明確に理解していました(参照:ヤコブ1:17–18)。救いは神からの賜物であり、人が肉体的に生まれてくる際に一切自分の意思や力が関係ないのと同じように、霊的な誕生においても全ては神の一方的な働きであることをヤコブは正しく理解していたのです。それゆえにここで告げられているヤコブが告げていることは、救われるために行いが必要だということではなく、救われたと言いながら主に喜ばれる歩みを全く生み出さない者たちへの警告・非難なのです。「無益」で「死んだ」信仰は、口先だけのものです。「私はイエスを信じています」という言葉を発することは誰にでもできます。しかし、「私はイエスを信じています」という生き方をすることは、本当に救われている人にしかできないことです。
 
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[1] 使われている単語を語順通りに並べると、「もし、信仰を、言うなら、誰かが、持っている、行い、しかし、持っていないなら」となります。信仰の告白と行いが各文節の冒頭に配置されることによって、この二つの関係が強調されています。
[2] ギリシャ語では、この疑問文の文頭に否定詞があり、それによってこの疑問文の回答が「ノー」という回答になることを示しています。