「信仰」という言葉をクリスチャンは頻繁に使います。しかし、この言葉の意味を「なんとなく」概念として理解してはいても、しっかりと「信仰」が意味していることを聖書に基づいて理解している人は実は少ないかもしれません。「信仰」は救いにおいても、クリスチャンの生活においてもあまりにも重要な事柄であるだけに、「なんとなく」しか分かっていなければそこには大きな問題が生じます。「信仰を持っている」と自分勝手に確信していても、もしその「信仰」が聖書の教えているものと異質のものであるならば、そこにはクリスチャンとしての成長も、ひょっとすると救い自体もないかもしれないのです。聖書は信仰に関して多くのことを教えています。ですからこの投稿でその全てを見ることはできませんが、ここでは「信仰」に関する教えの中でも中心的な事柄を整理して考えてみたいと思います。

信仰とは、人に対する命令である

多くの場合、信仰を持つか持たないかは個人の自由であるかのように語られることが多いのですが、聖書はそのような考え方を教えてはいません。聖書は信仰を持たなければならないと命じているのです。マルコは、イエスが福音を語り始めたとき「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と命じたことを記しています。パウロはピリピで看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と命じました。聖書は人に「神を信じた方がよいです」と勧めてはいません。「信じなさい」と命じているのです。ヘブルの手紙の著者は、次のようにこのことを解説しています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。ヘブル11:6

この節の前半部分は5節につながっています。エノクが神を喜ばせていたことが証されていたことを記した後、このように神を喜ばせるためには、信仰が必要不可欠であることを説明しているのです[1]。そして、そのように信仰なしでは喜ばすことが不可能である理由が後半に記されています。後半は「信じることが、神のもとに来る者になければなりません。」(ギリシャ語直訳)という言葉で始まっています[2]。つまり、信じることは絶対条件なのです。神の存在と神の豊かな報いを信じること (これは11:1で見たことの繰り返しです) がなければ神を喜ばせることができないがゆえに、聖書は神を信じるように命じているのです。
神は罪人が滅びることを望んでいません[3]。だからこそ、信じることを命じているのです。命令であるがゆえに、逆らうことは赦されません。信じないという選択は、それ自体が罪であることを聖書は教えているのです。
信仰とは、人の心の内になされる神の業に対する応答である
聖書は私たちに信じることを命じています。それゆえに、私たちが自分の意志で信仰を持つということは確かに正しい表現なのですが、同時に私たちは自分自身では決して信じるという選択をしないということをしっかりと理解しておかなければなりません。生まれながらの人が神のことばを正しく理解できないことができません(参照: 1コリント2:14)。ですから人が神を信じることができるようになるためには、神の働きが必要であることを聖書は教えています。イエスはヨハネの福音書の中で次のようにユダヤ人たちに話されました。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。ヨハネ6:44

ここでイエスは私たちが自分の力で信仰を持つようになるのではなく、神が私たちを引き寄せることによって、初めて主を信じることができるようになるということを教えています。これはルデヤが信仰を持ったときにまさに起こったことでした。ルカはその時のことを次のように描写しています。
テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。使徒16:14

主がルデヤの心を開くことで、彼女はパウロの言葉を理解しそれを信じるに至ったでです。神の働きがなければ私たちは信仰を持つことができないのです。ある人は「未信者に信じがたいメッセージをする」ことが、救いの道を狭めることだと訴えます。たとえばある著名な牧師は次のように記しています。

われわれは、伝道するとき、未信者にどんな福音を語ればよいのだろうか。何を語るべきかをはっきりさせようとするとき、逆に何を語らなくてよいのかについて考えることは助けになる。それはなにも、できるだけ最小限の条件を満たすだけで、ずるがしこく救いを受けさせるためでもなければ、ただ単に救いを受ける人の数を増やすためでもない。そうではなく、神の意図された救いのメッセージがいったい何であるかを正しく把握するためなのである。それはまた、前述のように、神が備えられた救いの門を人為的に狭めたゆえに、救われないまま一生を終えて地獄に至る人々に対する責任の問題でもあるとともに、神がなされた贖いのわざを、混ぜものをしないで伝達することによって、神のみこころを行い、神に栄光を帰すためでもある[4]。

また、次のように加えます。

米国のある伝道者は、最近では必ずと言ってよいほど、メッセージの中で、この「死」云々に言及する。・・・もしキリストのために喜んで死ぬ覚悟までしなければ救われないのなら、救いは途方もなく難しいものになる。そのようなことばが語られても、集会のムードに流されてぼんやりと聞く人にとっては何ら問題ないかもしれない。しかし、物事を慎重に考えるタイプの未信者がそのようなメッセージを聞いたとしたら、「信じる」という決断はほぼ不可能になる[5]。

これらの発言の一番の問題点は、信仰が自分の力でもたらされるという根幹的な考えにあるでしょう。救いの道は人が狭くしなくても、もう十分に狭いものであり、この狭い門から入るには、自らの意志ではなく神の召しが必要なのです。神は私たちに信じやすいメッセージを語るように命じませんでした。なぜならば、どのようなメッセージを私たちが語ったとしても、信仰を持つに至るには神の働きが必要だからです[6]。心の中における神の働きに応答することによって、私たちは真の信仰を持つことができるのです。
信仰とは、人が事実を理解し、その知識に同意し、キリストに献身することである
人が信仰を持つには知識が必要です。ですから人はイエスの生涯、死、そして復活に関する基礎的な知識を持たなければ信仰に至ることはありません。パウロも「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。」(ローマ10:14)と言っています。しかし、これらの知識はそれだけでは信仰とは言えません。事実、人は皆、神に関する事柄をしっかりと知っているにもかかわらず、神を神としない人生を選択しているのです(ローマ1:19-23)。
人はその知識に対して心からの同意をする必要があります。しかし、知識に同意したからといって、それが真の救いをもたらす信仰なのかと問われれば、その答えは「ノー」になります。たとえばニコデモは、イエスに関して正しい知識を持っていました。主がエルサレムでなされた業を見て、イエスが神から遣わされた者に違いないと判断していたのです。しかし、彼が救われていなかったのはヨハネ3章でのイエスとの会話で明らかに示されています[7]。
真の信仰は単なる知識でも、知識に対する同意でもありません。信仰にはこれらに加えて、キリストに対する完全な依存(または献身)が不可欠なのです。信じるとは「すべてを委ねる」ことであり、完全な信頼によって生み出される神への献身なのです。
信仰とは、世界観と生活の変化を伴って継続するものである
信仰はその質において変わることはありません。疑いがたくさんある信仰から、疑いの少ない信仰へと成長するということはないのです。しかし、信仰は成熟度において成長していくものです。私たちは初めから神が与えようとしているすべての祝福を理解しているわけではありません。また、神が求めることをすべて知った上で信仰を持ったわけでもありません。私たちは信仰を持った者として主に依存する人生を歩み始める時に、主に関する知識が増し加わり、神の恵の大きさをよりよく理解するようになります。そして主はそれらの理解を通して、私たちを継続的に変える働きをされるのです。キリストに対する信仰は、もしそれが本物であるならば、必ず主が語られた命令に対する信仰(同意するがゆえに出てくる服従)を生み出すのです。
聖書はクリスチャンを「信徒」と呼びます。この言葉は「信じ続ける者」と訳すことも可能な言葉です。つまり真の信仰を持った者は、決してそこから離れることがないのです。「今、私は神を信じることができません」や、「しばらくクリスチャンはやめます」などと言うことはあり得ないのです。神が約束してくださったことが現実のことであり、たとえそれを実際に目にすることがなくても、それが事実であると捉えて生き続けるのがクリスチャンなのです。
果たして真の信仰は私たちの内にあるでしょうか。私たちはそれを確かに自分のものとして生きているでしょうか?それを私たちは真剣に考えなくてはいけません。神の命令に対して、神ご自身が私たちの内に働かれて信じる思いを与えてくださり、「主に完全に信頼します」という依存・献身の決意をもって成長し続ける信仰が与えられているならば、私たちはどのような生き方をしていくべきなのでしょう?この信仰は見える形で私たちの生涯に現れているでしょうか?そのことを私たちは吟味しなければならないでしょう。
 
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[1] この部分を直訳すると、「そして、信仰がなければ、喜ばすことは不可能です。」となります。特に「〜なし」という前置詞と、喜ばすことが不可能であることが文章の構成の中で強調されています。
[2] 英語では “For he who comes to God must believe…” (NASB)となっていますが、原文は”for it is necessary for the one who comes to God to believe”と訳すことができます。「信じる」(believe)という言葉が文頭に配置されていることで、「信じる」ことが強調されているのが分かります。
[3] エゼキエル18:23; 33:11; Ⅱペテロ3:9; Ⅰテモテ2:4; 使徒17:30
[4] 高木慶太著、「信じるだけで救われるか」(いのちのことば社、1965)、55頁。
[5] 同上、69-70頁。
[6] 神が用いるメッセージは、神が語ったメッセージです。それ故に私たちはみことばを説き明かさなければならないのです。
[7] 使徒26:27に出てくるアグリッパに対するパウロの言葉もこのことの顕著な例となるでしょう。