多くの伝道集会で、説教者たちは「信じなさい。そうすれば救われます。」と人々に告げます。「ただ信じるだけで良いのです。」とクリスチャンは人々に訴えます。しかし、私たちはこのような言葉を使うに当たって、正しい理解を持っていなければいけません。確かに、聖書は信じることによって人が救われると言います[1]。ただ、この信じるということはいったい何を意味しているのでしょう。もし私たちが正しい定義でこの言葉を用いていないならば、そこには混乱が生じます。私たちは「信じなさい」と言うときに、何を、どのように信じることを勧めているのでしょう。「信じる」または「信仰」とはどのような意味を持っているのでしょう。

広辞苑では、「信ずる」という動詞に対して、「まことと思う。正しいとして疑わない。」また「まちがいないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。」 という定義がなされています[2]。また別の辞書では、「信仰」を「神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。」または「特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。」と定義しています[3]。往々にして、多くのクリスチャンはこのような定義に基づき、「信仰とは正しいと認め、疑わないことである」という認識を持っています。では私たちは何を正しいと認めるべきなのでしょう。また疑わないこととはどのようなことなのでしょう。聖書はこの信仰を次のように定義しています。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。ヘブル11:1

ここでヘブル人への手紙の著者は、二つの非常に似た事柄を列挙することによって、信仰とは何であるかを私たちに示してくれます。ですからまず、この箇所を注意深く見て、信仰とは何なのかを考えてみましょう。

聖書が教える信仰

ヘブル11:1を原文で見るとき、一番最初に登場する言葉は「〜である」という動詞です。これは信仰が、現存する継続的な現実であることを強調しています。信仰は常に現在進行形で存在するがゆえに、特定の時だけ働いたり、過去に持っていた美徳だったりすることはないのです。信仰とはスイッチをオンにしたりオフにしたりすることができるものではなく、キリスト者の生涯に継続的に実存する生き方なのです。

望んでいる事がらの保証

生き方である信仰に関して、この手紙の著者は最初に「望んでいる事がらを保証する」と言います。ここで注目したいのは「保証」という言葉です。著者はここで「信仰とは保証するものです」と言っているのですが、この「保証」とは何なのでしょう。ここで使われている名詞(フポスタシス)は、新約聖書に5回しか登場しない言葉です。そしてそのうちの3回がヘブル人への手紙で使われています。「〜の下に」という意味の前置詞と「立つ」という意味の動詞から派生した名詞で構成されているこの単語は、建物の基礎などを示して使われていました。何かの根源、または基盤となり、それ故に実体を与え(ヘブル1:3)、確かさ、確実さをもたらすという意味があるのです(2コリント9:4; 11:17; ヘブル3:14)。古代ギリシャにおいて、この言葉は財産の所有権を証明する書類などに対して使われていた言葉でした。それである辞書は、「信仰は待ち望んでいる事がらの権利証である」という訳をこの箇所にしています[4]。信仰とは保証を与えるものです。決して揺るぐことのない実存のものとして望んでいる事がらが起こることを保証するのが、信仰であるというのです。

「望んでいる事がら」は現実に私たちの目の前にあるものではありません。しかし、たとえ物質的証明の全くない中でも、神が約束してくださっている事柄が「実際に現在形で私のものである」という保証をもたらすのが信仰だというのです。つまり、本当の信仰とは、神が語ったがゆえに確信するという、約束をしてくださった方に対する超自然的信頼と確信なのです。

新改訳聖書の注では、「保証」という訳の別訳として「・・・の実体であり」という記述があります。信仰は明らかに望んでいる事がらの実体ではありませんが、今手にしていないものを確かに手にすることができるという、あたかもそれが実在するかのような確信を抱かせるものなのです。この信仰こそ、ヘブル11章に登場する多くの信仰の勇者たちに共通する特徴です。 またここで保証されていることは、個人的な救いの確信ではありません。むしろ、福音のメッセージに対する完全無欠な確信です[5]。つまり、この手紙の著者は、信仰が私たちの個人的救いを保証すると言っているのではないのです。確かに信仰がなければ、救いの確信は生まれません。それ故に信仰は救いの保証となると言うことが可能かもしれませんが、この箇所でのポイントは、「個人の救いを保証する信仰」ではなく、「神の約束を保証する信仰」なのです。

生まれながらの人間にとって、このように神の約束を確信することは愚かなことと感じられるでしょう(1コリント2:14)。私たちが何かを信頼するとき、私たちは肉体的感覚に基づいて信頼をします。しかし、この手紙の著者が訴えていることは、私たちの信仰はこのような肉体的感覚に基づいたものではなく、霊的、超自然的な確信であるというのです。このような信仰は決して人のうちから出てくるものではありません。神が与えるものなのです。もし、私たちが自分の知性や感覚を用いて信じるならば、その信仰は何の保証も与えません。なぜなら私たちの知性や感覚は私たちに間違った事柄を信じさせることができるからです。しかし真の信仰は神的働きにより与えられる疑う余地のない確信の上に立っているのです。

見えないことへの確信

次にこの手紙の著者が信仰に関して告げることは、「信仰は確信させるものである」ということです。この確信とは、先に見た「保証」と非常に似た概念ですが、保証をさらに強い形で現すものです。確信とは、内にある保証の現れであり、「見えないもの」が確かにあるとして生きる生き方に反映されます。つまり、信仰の人はその信仰に基づいて生きていくというのです。揺らぐことのない圧倒的な保証を神の約束に関して持っている人は、この約束が絶対に疑う必要のないものであることを理解しているがゆえに、もうすでに約束が成就しているかのように生きるのです。

信仰の父として知られるアブラハムはまさにこのような人物でした。パウロは次のようにアブラハムの信仰について記しています。

彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。ローマ4:18-22

アブラハムの子であるイサクの誕生に関する話は、神がいかにこの誕生が人間的に不可能なことであるかを知らしめようとしている話と考えることができます。創世記12章で子孫に関する約束を受けたとき、アブラハムはすでに75歳でした。これまで子どもを得ることができなかったアブラハムに対して、神は続けて彼に子孫が与えられる話を繰り返します。しかし、常識的に考えて自分の妻サラが子を産むことはあり得ないと考えたアブラハムは、まず自分の奴隷が跡取りになることを考え(創世記15:2-3)、そして妾を通して子孫を得ようと考えました(16:2; 17:19)。12章の約束から25年近くたったとき、神は再びアブラハムに子孫を与える約束をしました。しかし、アブラハム夫妻は単に年を取っていただけでなく、またサラが不妊の女であっただけでなく、彼女が肉体的に子どもを生むことができない状況にあったのです(創世記18:12)。それでも、アブラハムは「望みえないときに望みを抱いて信じた」のです。彼は「不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた」のです。「神の約束は成就する」という保証は、「そのことを確信して生きる」という人生を確かに生み出したのです。

さらに、このことはアブラハムがイサクを捧げる記事の中で明らかになります。ヘブル書の著者は、このときの様子を次のように記しています。

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。ヘブル11:17-19

アブラハムがイサクを捧げることができたのは、ただ彼が神の約束に確信を抱いていたからにほかありませんでした。彼は、死者がよみがえることを見たこともなかったにもかかわらず、イサクを通して彼に偉大な国民を与えるという神の約束が曲げられることがないという確信のもとに、神の命令通り、イサクを捧げようとしたのです。これはまさに見たことのないものを確信する信仰の生き方です。

アブラハムだけではありません。ノアは、神が何を求めているのかを完全に理解していなかったにもかかわらず、作ったこともない巨大な箱船を神の約束に確信を抱いて作りました[6]。シャデラク、メシャク、アベデネゴは、いのちの危機に直面したとき、目に見える王の力に屈服するのではなく、目に見えない真の王の力に信頼を置き、主に従い続ける決断をしました。ヨセフやモーセなど、聖書にはこのように信仰のゆえにある絶対的な確信に基づいてその人生を生き抜いた人たちが多く記されているのです。

確かに私たち人間は誰でも、このような信仰に基づく確信を持って生きています。たとえば、手術をするときに、私たちは執刀医の技術と知識を信じて、手術を受ける決心をします。水を飲むときに、水道の水が安全であるという信仰のもとに、水を飲むという行動を取ります。すべての人にはこのように確信に基づいて生きるという能力が備わっているのです。しかし、生まれながらの人は、神の真理を知り得ないがゆえに、「目に見えないものを確信させる」信仰を持つことがないのです。神の約束は彼らにとってはむなしい現実味のない約束であり、希望的観測でしかなく、それに基づいて生きる価値のないものなのです。これは盲人が、光は存在しないと訴えるのに似ています。しかし、見ることができないがゆえに、触ることができないがゆえに、確信することが不可能だと考えられる事柄に対して、確信を抱くことができるように神は私たちの目を開いてくださり、神のみことばを分からせ、恵みによって私たちを信仰へと誘ってくださったのです。

聖書が教える信仰とは、信じる者が継続して持ち続ける確かな保証であり、生き方に明確に反映される確信です。まだ起こっていない事柄が確約されていることを信仰は明確にし、見えないものをその確かさのゆえに絶対的な確信をもって「ある」と理解して生きることが信仰なのです。それゆえに、信仰は単なる知識でも、その知識に対する同意でもありません。信じている事柄に同調する生き方なのです。

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[1] ヨハネ3:16; 3:36; 20:31; 使徒10:43; 16:31; ローマ10:9-10; エペソ2:8-9など

[2] 広辞苑第五版(C)1998,2004 株式会社岩波書店、「信ずる」。

[3] 大辞泉(C) 2006 株式会社小学館、「信仰」。

[4] James Hope Moulton and George Milligan, The Vocabulary of the Greek Testament (Grand Rapids, MI: Eerdmands, 1930), 660.

[5] その証拠に11章で語られている信仰の勇者たちの話は、個人的な救いの保証に関するものではなく、神の約束に関するものであることを容易に見ることができます。

[6] 洪水前の地上には雨が降らなかったとも考えることができるので、ノアは雨が降ると告げられてもそれが何を指すのかを理解することができなかった可能性があります。また、これまでに船を造った経験もありませんでしたし、動物たちを集める手段も想像することはできなかったでしょう。しかし、ノアは主の約束を信頼し、それが確かであるという確信に基づいて生きたのです。