「福音とは何か?」という問いかけに対して、私たちはコリント第一の手紙15章に記されているパウロの福音の要約から、福音のメッセージに含まれていなければならない内容に関して考察してきました(「福音とは何か 1, 2, 3」)。パウロが語った福音と違う福音を宣べ伝えているならば、それは呪われるべき行為であることを聖書は告げています(ガラテヤ1:8–9)。それゆえに私たちは自分たちの語っているメッセージの内容を今一度注意深く吟味する必要があります。またその福音を宣べ伝える者として、私たちがどのように福音を提示すべきなのかを考えました(「福音を宣べ伝える者とは」)。私たちは「管理者」「布告官」「大使」として忠実に主が語るメッセージを宣べ伝えなければならないのです。

日本という伝道の困難な国において、宣教師や牧師たちは何とかこの福音が多くの人に受け入れられるようにと祈り求めてきました。彼らは「たくさんの人に福音を知ってもらいたい」または「一人でも多くの人にイエス様を信じてもらいたい」と願って働きを行ってきました。私たちはこうした信仰の先駆者たちに感謝をしなければなりません。しかし、残念ながらこのような「信じてもらいたい」という強い願望は時に、「福音のメッセージを簡略化する」または「日本人向けに福音を変える」という悲劇を作り出すことがあります。「どうしたら受け入れてもらえるのか」ということを追求するがゆえに、受け入れがたい内容を取り除き、神が提示する福音のメッセージを忠実に、余すところなく伝えるのではなく、少しでも多くの人に届くように最小限のメッセージにとどめて伝えるようになるのです。

受け入れがたいメッセージをしないようにと心がけてきたために、日本の教会では人の罪を責めることをやめ、神の怒りを説くことのない福音が語られることが多くあります。受け入れられやすいようにと努めるがゆえに、福音の否定的で断罪的な部分は語られることがなくなり、「神がいかに人を愛しておられるのか」という部分だけが強調されるようになりました。それだけでなく、この愛を伝えるために「人の価値」が不当に全面に押し出され、まるで「神が人を救うのは人に救われるほどの価値があるから」と訴えるかのように人間中心的な福音の提示がなされています。しかし、もし罪を正しく認識することなく、自分が神の御怒りの対象であることを知ることがなければ、人は「なぜ神であるキリストが、十字架で死ななければならなかったのか」という最も根幹的な質問に正しい回答をすることはできません。「滅ぶこと」を理解していない者は、本当の意味で「救われなければならない」理由を理解することはないのです。

人は誰でも永遠のいのちや真の幸福を得たいと願っています。人の歴史はそのような永遠のいのちと真の幸福の探求の歴史であると言っても過言ではないでしょう。では、イエス・キリストがそれらを現実に提供してくれるということを納得させれば、人はクリスチャンになりたいと思うのでしょうか。持っている問題を解決したくない人は誰もいないでしょう。では、問題を解決する救い主がいるということを理解できるように説明すれば救いを得るようになるのでしょうか。もし単にこのようなメッセージに応答するだけなら、それは肉の欲を満たそうとしているだけと考えることも可能だということを私たちは忘れてはならないのです。しかし、もし私たちが「わずかな真理を多くの人に」というモットーで福音宣教を捉えているならば、まさにこのような、肉の欲望を満たすために福音を信じると告白する人たちを生み出すことに助力していることになります。救われていると思い込んでいる未信者を生み出す元凶となってしまうのです。

私たちはなぜ救いを求めるのでしょう?救われたいとなぜ思うのでしょう?確かに人は赦しが必要だと思うかもしれません。しかし、どうして赦されたいと思うのでしょう。なぜ赦されることに関心を持たなければならないのでしょう。ひょっとするとある人は、「私は罪悪感にさいなまれない人生を歩みたいから」と答えるかもしれません。また別の人は「私は地獄に行きたくないから」と言うかもしれません。そしてもしクリスチャンだと告白する人たちがこのような回答をするなら、それは非常に大きな問題を明確にしていることに気づく必要があります。その問題とは、この赦されたいという願いが未信者が持っている願望と何一つ変わらない可能性があるということです。人は自分のために赦しを求めようとします。自分が嫌な思いをしたくないから赦されようと思い、自分が永遠の苦しみを受けたくないから、赦される必要があると願います。それは自分の利己的な願望を満たすために生きる生き方であり、このような人にとって福音とは単に自分の求めるものを得るための手段でしかないのです。

誰かに対して悪を行い、罪を犯したとき、私たちは赦しが必要であると考えます。しかし、なぜ赦される必要があるのでしょう。赦されることがないと私たちが良心に責められ、罪悪感に満ちた嫌な一日を過ごすからでしょうか。赦されることがないと私たちが受けることができる人間関係の利得を得ることができなくなるからでしょうか。もしそうだとするなら、「私が欲しいものを手に入れることができるから、福音は良い知らせです。」と私たちは言うべきなのでしょうか。私たちが赦されたいと願うのは、気持ちよく一日を過ごしたいからでも、利得を得ることができるようになりたいからでもありません。私たちが赦されたいと願うのは、悪が行われ、罪が犯されたことによって壊れてしまった関係を元に戻したいからです。赦しだけがその壊れた関係を回復させるからです。

私たちは誤解してはいけません。福音が良い知らせなのは、私たちが自分の欲しいものを手に入れることができるからではないのです。親に逆らった子どもが、アイスクリームを買って欲しいがゆえに親に赦しを求めるとするならば、その願望は決して正しい動機に基づいたものとは言えないでしょう。親が子どもを赦したいと願うのは、子どもの欲しいものを買ってあげたいからではなく、罪によって壊れてしまった関係を回復したいからなのです。

神は私たちに赦しを与えようとしています。そのために御子イエスを送り、十字架と復活を通して罪の解決をなしてくださり、赦しの業を完成してくださいました。しかし、それは私たちが罪悪感を持たなくなるためでも、私たちが地獄に行かなくなるためでもなかったのです。確かにそれらは赦しに付随するすばらしい利得ですが、赦しは利得を与えるためにあるのではなく、壊れた関係を回復するためにあるのです。赦しの価値はこの一点にしかありません。それは私たちを和解した者として神のもとに連れ戻すことなのです。神は確かに私たちに愛を示してくださっています。しかし、それは私たちが「愛されていること」を実感するためでも、「私には価値があるんだ」と思うためでもありません。神が恵み深い方であることを私たちが知り、この方のすばらしさを讃えるためなのです。

福音のメッセージは完全な形で伝達されなければなりません。良い忠実な管理者であることが求められているクリスチャンには、福音を簡略化したり、人に合わせて変更したりする自由はありません。伝令官として私たちは神の語ることをその通りに、加えることなく取り除くことなく伝えなければなりません。もし私たちが正しく福音のメッセージを語らなければ、いったい誰が真の救いに至る福音を伝えるのでしょう?「救われていると思い込んでいる未信者」を生み出す働きをすることのないように、私たちは注意しなければなりません。