「福音とは何か?」という問いかけに対して、私たちはコリント第一の手紙15章に記されているパウロの福音の要約から、福音のメッセージに含まれていなければならない内容に関して三回にわたって考察してきました (1, 2, 3)。パウロが語った福音と違う福音を宣べ伝えているならば、それは呪われるべき行為であることを聖書は告げています(ガラテヤ1:8–9)。それゆえに私たちは自分たちの語っているメッセージの内容を今一度注意深く吟味する必要があります。
同時に私たちは福音を宣べ伝える者として、どのようにこの福音を伝えるべきなのかを知る必要もあるでしょう。パウロは「キリストが私をお遣わしになったのは・・・福音を宣べ伝えさせるためです。」(Ⅰコリント1:17)と言います。パウロは福音を宣べ伝えるために、キリストに遣わされました。それゆえに、私たちはパウロの働きを通して、どのような福音宣教の働きをするべきなのかということの模範を見ることができるでしょう。パウロは自分自身を「福音を宣べ伝える者」としてどのように捉えていたのでしょう。そこには少なくとも3つの理解を見ることができます。

最初に挙げることができるのは「管理者」です。私たちは福音の管理者として自らを捉え、この福音を述べ伝えるべきだとパウロは教えるのです。このことは彼の次の言葉から明らかになります。

こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。( Ⅰコリント4:1)

もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。(Ⅰコリント9:17)

上記の二つの節に記されている「管理者」という言葉と「務め」という言葉は同じ語源の言葉で、どちらにも「注意深く守らなければならない尊い物、または責任を誰かが与える」という意味を持っています。「主に用いられる価値もない罪人が、神から信頼される管理者として、大切な福音を預けられるような者とされている」とパウロは言うのです。私たちは福音を委ねられている者としてこのメッセージを述べ伝える責任があるのです。
パウロは「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ。」(Ⅰコリント9:16)とまで言います。   これは福音を語らなければ神から災いが与えられるという意味ではなく、パウロに与えられていた責任を果たさず、不忠実な管理者として歩むことに対する深い悲しみと嘆きを現しているのです。管理者として福音のメッセージを委ねられた者は「忠実であることが要求されます」(Ⅰコリント4:2)。この要求は、必須条件としての要求です。つまり、管理者は忠実でなければならないのです。この忠実さは特にメッセージを語る責任とその内容に対する忠実さを指しています。そしてこのことが次の特徴に現されています。
宣教の働きに携わる者としてパウロは自分自身を「管理者」としてだけでなく、「布告官」として捉えていました。パウロは自分が、「この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。」(Ⅱテモテ1:11)と言います。ここで使われている「宣教者」という言葉は「布告官」という意味があり、伝令として他の人の代わりに声明などを公表する伝達者を指して使われていた言葉なのです。彼がこのように自分自身を捉えていたのは、彼の語ったメッセージが彼自身のものではなく、彼を遣わした方のメッセージであるがゆえです。王が遣わした布告官が自分勝手なメッセージを宣告しないのと同様、パウロが語るメッセージも王の王が告げよと命じたとおりのメッセージであったのです。
事実、この「布告官」と訳すことができる単語から「宣べ伝える」という動詞が派生しました。つまり、パウロが「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:23a)と言ったのは、彼らが布告者としての働きをしていることを現しているのです。布告官であるクリスチャンは、「主が語れ」と命じたメッセージを変えることなく語らなければならないのです。
ここで私たちは非常に重要なことを覚えておかなければなりません。パウロはこの文脈の中で次のように述べています。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。( Ⅰコリント1:21-25)

パウロはこの箇所で、「宣教のことばの愚かさ」という言葉を使っています。この「宣教のことば」という表現も「布告者」という言葉の派生語で、布告者の行為またはその布告内容について言及しています。つまり、パウロは布告の行為だけでなく、そのメッセージ自体も人の目には愚かであると言っているのです。別の言い方をすれば、福音のメッセージは愚かなメッセージであると言っているのです。
私たちの持つ誘惑は、愚かなことを語ろうとするときに、その内容を再考し、愚かさを取り除こうとすることでしょう。人々が愚かだと考えることではなく、むしろ彼らが求めることを語ることによって少しでも多くの人に福音を伝えようと考えることかもしれません。しかし、パウロは一切そのような行為をしないのです。彼は人々が何を求めていたのかをよく知っていました。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」と彼が言うとおりです。しかし、そのことを熟知していながら、なぜパウロは彼らの必要を満たそうとするのではなく、「十字架につけられキリストを宣べ伝え」続けたのでしょう。その理由はまさにこの「布告者」であることの理解に基づいています。私たちがすべきことは、人々の関心を得ることではなく、神のメッセージを忠実に語ることでしかないのです。
もう一つパウロが教えることは、パウロは「大使」であるがゆえに、このメッセージを権威を持って語ることができるということです。パウロは福音宣教に関連する文脈でこの「大使」という言葉を用いて自分のことを次のように表現しています。
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(エペソ6:19-20)

ここで使われている大使という言葉は、国や人物の代表として様々な交渉をする権威を持った人物を現す動詞です[1]。ここでも、自分の言葉でなく、自分を遣わした方の言葉を語るという点において「布告者」としての役割と重なる部分がありますが、この言葉には自分が主の代行者であり、自分を通して主がその働きをしていることが含まれています。それ故にパウロは「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(Ⅱコリント5:20)と告げたのです[2]。パウロは、キリストの大使であるがゆえに、キリストに代わって人々に悔い改めと信仰による神との和解を、神の権威に基づいて勧めているのです。
パウロにとって福音とは語らなければならないメッセージでした。それは彼が自分自身を神の福音の管理者であり、布告者であり、そして大使として正しく認識していたからでした。彼の語るメッセージはそれ故に主の言葉に付け加えることも、取り除くこともしないメッセージであり、たとえどのような迫害が目の前にあったとしても恐れることなく、どのような反論があったとしても妥協することのないものだったのです。
 
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[1]日本語訳を見ると名詞のように見えますが、これは動詞で「大使である」という意味を持っています。
[2]ここで使われている「使節」という言葉は「大使である」という動詞と全く同じ言葉です。