使徒たちが語った福音は「世界中を騒がす(別訳:ひっくり返す・ごちゃごちゃにする)」メッセージでした。彼らが語った福音は、確かに人に救いをもたらすメッセージでしたが、同時に多くの人々に敵意を抱かせるメッセージでもありました。それはパウロを代表とする使徒たちや初代教会の信徒たちの迫害を見れば明らかです。ではなぜ福音のメッセージは人々に敵意を抱かせたのでしょう?それはこのメッセージが、キリストだけが唯一まことの神であるがゆえに、それ以外のありとあらゆる神々と呼ばれるものを否定するメッセージであり、全ての人が例外なく罪人であり、罪の罰を受けるにふさわしい、神の怒りの対象であることを告げるメッセージであるからです。パウロはこのことを福音を要約する「キリストは私たちの罪のために死なれたこと」という言葉によって告げてきました。
しかし、福音のメッセージはキリストの死で終わるメッセージではありません。それゆえに1コリント15:4から、キリストが葬られたことと復活されたことについて言及していきます。復活のない福音は、福音ではありません。キリストの復活を信じることなく、福音のメッセージを信じることはできません。現代に生きる日本人は、アテネの人々と同じようにあざ笑い、ばかげた話だと考えるかもしれませんが、主が復活されたという事実は、福音の根幹をなす、決して外すことのできない真理なのです。
パウロは4節の冒頭で「また、葬られたこと」と告げます。ここでパウロは死の結果として、また次に起こる復活の前触れとして起こった出来事について言及しています。詩篇16:10に記されているように、聖書は「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」と教えます。ペテロはこの詩篇を引用して次のように告げました。
「葬られる」ということは、キリストの死が確かな死であったことの証明です。これまで人として生きられた方の死なのです。しかし、同時にこれは死で終わるものではないことの証でもあります。そのことをパウロの言葉からはっきりと見て取ることができます。
パウロは「三日目によみがえられたこと」を次に挙げています。復活がここで記されているのです。福音のメッセージで多くの場合に欠落するのがこの復活のメッセージです。しかし、復活がなければ福音が成立しないことを私たちはしっかりと覚えていなければいけません。ペテロはキリストの復活と私たちの新生を関連づけて「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(Ⅰペテロ1:3)と言います。キリストが復活されたことによって持たれた復活のいのちが、私たちの持つ新しいいのちの起源となっているのです。パウロは「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:5–6)と言って、私たちが救いを得ることによって、キリストの復活に預かる者となったことを告げます。そしてその復活の力を私たちが知り続け(ピリピ3:10)、死者の中からよみがえった者として生きることによって、罪に支配されることがないというすばらしい祝福を得ているのことを教えるのです(ローマ6:14)。
さらに、キリストの復活は私たちの義認を保証します。パウロは「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)と言って、復活の目的が私たちの義認にあることを教えています。キリストの復活を通して、神は贖いの業を受け入れたことを宣言されたのです。復活は、これ以上人が義と認められるために行わなければならないことが何もないことの宣言なのです。
またキリストの復活はやがて起こる私たちの肉体的復活を予兆しています。パウロはこのように告げています。
クリスチャンが持つ大きな希望は、いつの日か完全に罪の束縛から解放され、永遠を神の賛美に費やすことができるということです。その保証こそがキリストの復活にあるのです。パウロは復活に関して教えているこの章の最後にこう言っています。
キリストの復活は私たちの新生と救いの保証であり、永遠の希望です。これは私たちに絶えることのない感謝をもたらし、神のために仕える意欲を生み出すのです。多くの場合に私たちは十字架で死なれたキリストに焦点を当てています。しかし、私たちが信じるのは死んだキリストではありません。パッカー師は次のように記しています。
新約聖書が要求していることは、キリストご自身に対する、ご自身への、ご自身にかかる信仰である—それは私たちの罪のために死なれた生ける救い主に、私たちの信頼を置くことである。このように厳密に言えば。救いをもたらす信仰の対象は、贖罪ではなく、贖罪をなされた主イエス・キリストなのである・・・キリストの死の恩恵が与えられる人は、まさにキリストご自身を信頼し、単にキリストの救済的死ばかりではなく、彼ご自身、生ける救い主その方を信じる人々だからである[1]。
まさにここでパッカー師が告げることを教えるために、パウロは5節から8節の言葉を付け加えているのです。パウロが福音として伝えたことの最後に登場するのが、この復活の目撃者に関する記事です。これはキリストが単なる霊として復活したのでも、幻として現れたのでもなく、実際に復活されたことを明らかにする証言です。キリストはよみがえられ、その状態で今も生き続けておられるのです。パウロは次のように言葉を続けています。
復活はおとぎ話ではありません。パウロは次のように告げます。
キリストがよみがえらなければ、私たちの罪の赦しはなく、私たちは未だに罪の中にあり、神の怒りの対象として永遠の裁きを受ける存在でしかありません。キリストに希望を抱いたとしても、その希望は確証のない、いやむしろむなしい妄信でしかないがゆえに、あらゆる人たちの中で最も哀れな者なのです。しかし、聖書ははっきりと私たちにキリストの復活を教えています。復活の目撃者たちは、この復活の主を大胆に宣べ伝えました。そのメッセージは「世界中を騒がす」メッセージだったのです。
生けるキリストはパウロやほかの弟子たちを変えました。イエスを捨て、恐れ逃げ惑っていた弟子たちは、復活の主によって、大胆に恐れることなく福音の宣べ伝える者へと変わっていきました。この福音によってもたらされる恵みは、明確に人々の生涯に変化をもたらせます。それは私たちの生涯にも必ず、確実に現れるものです。これがパウロが伝えていた福音です。私たちはこの福音を述べ伝えなければならないのです。
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[1]パッカー、73頁。