「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)とイエスは告げました。「天国への門」という標識がかかっていても、「いのちへの道」という名前が付いていたとしても、誰でも容易に入り、心地よく歩んでいくことができる道は「いのち」ではなく「滅びに至る」ものであることを主は明言しています。逆にイエスは「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)と言います。この言葉はとても厳しいものです。なぜならば主はここで、多くの者が真の救いへと続く道を歩むことがないことを教えているからです。

プロテスタント信仰が伝えられるようになって160年近く経つ中で、残念ながら日本での福音宣教が発展していく姿を目の当たりにすることがありませんでした。日本は世界的にも最も伝道の難しい国の一つとして知られています。そのような困難の中で、キリスト教会は「多くの人に救われて欲しい」という願いのゆえに、「狭い門」を何とか一人でも多くの人が入ることができるように広げようとする誘惑にさらされてきました。できるだけ未信者に聞いてもらいやすいメッセージを考え、受け入れられやすい内容を伝えることに努めた結果、現代のキリスト教会は時にパウロたちが宣べ伝えた福音とは異質の福音を語るようになってしまったのです。
私たちは「福音とは何か」を今一度しっかりと聖書に則して吟味する必要があります。なぜならば、このメッセージを間違って理解するなら「キリストを信じて救われていると思い込んでいる未信者」を教会が生み出すという悲劇を見ることになるからです。福音とは私たちが「人に救われて欲しい」という熱心さのゆえに、その内容を変えてもかまわないようなものではありません。誰でも入ることができるように門を大きくするのが私たちの役割ではなく、たとえ狭くても、全てを捨ててその狭い門から入ることを促すことが私たちの役割なのです。
パウロは1コリント15:3–5で彼が信じ宣べ伝えた福音のメッセージを要約しています。この要約から、私たちは福音のメッセージとはどのようなものであるのかを考えています。まずパウロがこの要約の中で明らかにしたことは、キリストが神であり、神がどのような方であるのかということが福音には含まれていなければならないことでした(「福音とは何か (1)」)。そして次にパウロが告げるのは、このキリストが「私たちの罪のために死なれた」ということです。ここにはとても大切なことがいくつか含まれています。
一番目は「私たちの罪」です。日本人にとって罪とは「犯罪」を指す言葉としてとらえられています。事実、犯罪という言葉を辞書で引くと「罪を犯すこと」と定義されています[1]。しかし、聖書が語る罪は「犯罪」とは異なります。単に人間的な道徳的規律を破ること、違法な行為を行うことではないのです。ある神学書は「罪とは行動、態度、または性質における神の道徳的基準への不一致である」と定義します[2]。ここで定義されているように罪とは、神ご自身と神の定めた律法とに関連することであり、単に私たちの行動だけでなく、態度にも言及するものです。そして私たちの生まれながらに持つ性質さえも問題となっているのです。この最後のポイントを理解することは非常に大切です。聖書は私たちが「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)と告げています。ダビデは自分が「咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)と告白しています。生まれながらにこのような罪の性質を持っているがゆえに、私たちは神の前に正しいことをなすことがないのです。パウロは自分について「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」(ローマ7:18)と言います。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(エレミヤ17:9a)のです。それで聖書は「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)と明言するのです。イエスは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と告げました。これが私たちの持っている現実なのです。確かに人の視点から考えれば、人はよいことをすることができると考えるかもしれませんが、神の前では「私たちの義はみな、不潔な着物のよう」(イザヤ64:6b)なのです。
パッカー師は、「福音とは罪についてのメッセージである」と言って、次のように記します。

私たちが罪を犯し続ける理由は、人間が生まれつき罪人であるからであり、私たちが自分のために行う、あるいは行おうとするいかなることも、自らを正当化することはできない、あるいは、神の愛顧に連れ戻すことはできないと言うことを告げる。福音は、神が私たちを見られるように私たちを私たち自身に示し、神が私たちについて持っておられるような考えを、自らについて持つように教える。福音はこうして私たちを自らへの絶望に導く[3]。

パウロは「私たちの罪」という言葉を用いることによって、私たちに罪があることを明確に示しています。そして、その罪を正しく理解することなしに私たちは福音を理解することはないのです。パッカー師は「罪を自覚するということは、自分をあらゆる面での失敗者であると感じることだけではなく、自分を、神に背き、神の権威をないがしろにし、神を無視し、神に敵対するようになり、神との関係を損なってしまっている者と理解することを意味するのである[4]。」と言います。この理解なしに、福音を正しく知ることはないのです。福音のメッセージは、最初に私たちを圧倒的な絶望へと導き入れます。その絶望があって初めて救いの真のすばらしさを知るようになるのです。
二番目は「死なれた」です。ここでは少なくとも3つのことを考える必要があるでしょう。まず「死なれた」というからには、「生まれた」ということが起こっています。すでに見たように、パウロは「キリスト」という言葉を用いて、イエスの神性を訴えました。ここで彼はこの神である方が、死ぬことができる人としてこの地上に来られたという事実を明確にしているのです。神である方が人として生まれる(受肉)ということは、福音のメッセージを理解する上で必要不可欠な事柄です。もし人が生まれながらにして罪人であるならば、そのような罪人と人となられたキリストの違いを明確に提示する必要があるのです。
次に「死なれた」というからには、「生きていた」ということが含まれます。どのようにイエスが生きていたのかを知ることは、福音を正しく理解する上で取り除くことのできない真理なのです。キリストがいかに罪を犯すことなく、神に完全に従がって生きたのかを知ることは、贖いの業の有効性を証明することになります。イエスが生きたその生涯を通して、彼が確かにメシアであり、約束された救い主、神であることを証明することができるのです。
最後に「死なれた」というからには、「死んだ」という事実が含まれます。神であるがゆえに罪を持たずに生まれ、罪を犯すことなく生きた方が死んだという事実は、まさに福音の核心部分に相当するのです。キリストの死の原因は私たちの死の原因とは根幹的に違います。私たちは自分の罪の報いとして死を経験しますが、キリストはそうではなかったのです。これらの3つの事柄は、キリストの地上での生涯を包括しています。つまり、パウロは人として地上に来られたキリストの生涯について話をしているのです。福音はキリストについてのメッセージです。そしてそのメッセージとはキリストがどのような人物であるのかということから始まるのです。
三番目は「ために」です。この言葉は非常に深い意味を持っています。そのすべてをここで細かく説明することはできませんが、ここで間違いなく私たちが理解しておかなければならないことは、福音とは贖罪の業であるということです。なぜ神である方が人として生まれ、人として生き、必要のなかった死を経験したのかという核心がここにあるのです。この贖いとしての死は神が人を救うために必要なことでした。罪を持つ者を裁く聖なる神は、すべての人を裁く絶対的必要を持っていました。もし神が罪人を裁かなければ、それは神が聖ではなく、不義を許容する神であることを告げる行為なのです。しかし、人を救うという選択をされていた神は、自らの聖と義を守りつつ、人の罪を赦す方法をキリストを通して示されたのです。
パウロは「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」(ローマ3:25a)と記してこのことを明確にしています。裁かなければいけない人の罪を、神はキリストに負わせることによって、罪人に対して向けられている怒りを取り除いたのです。
このことを考えるとき、私たちはまたいくつかの事柄に思いめぐらす必要があります。なぜ神はこのような贖いの業(キリストの死)を救いの方法となされたのでしょう。この疑問の回答はすでに見てきた私たちの罪にあります。完全な堕落のゆえに神の前に正しいことをすることができない私たちは、どのような行為をもってしても自らを神の前に義とすることができないがゆえに、神からの贖いの業が必要だったのです。この神の業の必要性を認識できないとするなら、それは私たちの罪深さと完全な堕落を私たちが正しく理解していないからにほかありません。「救いは行いではなく恵みによるものだ」とクリスチャンが訴える根拠は、身代わりの死というキリストの贖いの業以外に、神の義を全うするすべがないという事実に基づいているのであり、そう宣言する根拠は、神の前に立つ自分の圧倒的な罪深さを理解しているからなのです。
この理解を持っている人物はもう一つ大切なことを理解しています。それは、私たちが神から救われているということです。ある神学者は次のようにこのことを的確に表現しています。

私たちは何から救われなければならないか。神から救われなければならないのである。[中略] すべての人は何から救われなければならないか。神からである。悔い改めない者が墓の向こう側で最も目にしたくないもの、それは神である。私たちは神から救われなければならない[5]。
神の御怒りが流れ出るこの恐ろしい局面を一瞬でも考えるなら。私たちのたましいは震えおののく。私たちが神の怒りに焼き尽くされるにふさわしいものであると考え、その御怒りが私たちの代わりにイエスを焼き尽くしたのだと悟るとき、そして、その差し迫った危険の大きさを知るとき、私たちは、イエスが授けてくださった救いの大きさを知ることができるのである[6]。

私たちは「罪に対して怒っている神」を、「愛を持って私たちに救いを備えてくださる神」を知る前に見いださなければなりません。神の激しい怒りを受けること以上にふさわしいことはないという事実をはっきりと認識することは、なぜ、キリストが私たちのために死んでくださったのかを正しく知るために不可欠なのです。
 
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[1]広辞苑第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店、「犯罪」。この点における理解の相違が日本人に対する伝道の困難を助長していると考えることができます。
[2] Wayne Grudem, Systematic Theology(Grand Rapids, MI: Zondervan Publishing House, 1994), 490.
[3] J.I.パッカー著、「伝道と神の主権」、65ー66頁。
[4]同上、67-68頁。
[5] R.C.スプロール著、「何からの救いなのか」魚本つる子訳(いのちのことば社、2008)、29-30頁。
[6]同上、31頁。