すべてのクリスチャンに与えられている大きな責任の一つは「弟子を作る」ことです。この弟子を作るという命令には、大きく二つの要素が含まれています。その一つが伝道です。イエスは「バプテスマを授けなさい」と弟子たちに命じました。イエスは、世界中でキリストの福音を伝え、人々がキリストに属する者であることバプテスマを受けることによって証しするようになるために、全てのクリスチャンが出て行くことを命じています。この命令は特定の弟子たちにだけ命じられていることではなく、すべての主を信じる者の責任として求められていることです。大宣教命令は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20b)という言葉で終わります。これは主の命令が使徒たちの世代だけに適用するのではなく、主が再臨されるその時まで、すべての弟子たちに対して求めておられる命令であることを示しています。神は私たちが神のすばらしさを人々に現し、私たちが神の救いの御業を人々に宣べ伝えることを求めているのです(Ⅱペテロ2:9)。
救われた者は、この救いのメッセージを人々に伝えていく責任があります。神が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(Ⅱペテロ3:9b)ならば、この神を喜ばせて生きようと願うクリスチャンが伝道の働きを怠ることは考えられないことです。しかし、今日この伝道の働きに関して大きな誤解が生じています。伝道とはいったい何なのでしょう。私たちは正しく伝道を理解し、正しく伝道を実践しているのでしょうか。このことをすべてのクリスチャンはしっかり考えなければなりません。

辞書で伝道という言葉を調べると「主にキリスト教で、その教旨を伝え宣べて未信仰者に入信を促すこと」という定義がなされています[1]。この定義は非常に的確な定義です。J. I. パッカー師は新約聖書は伝道を次のように定義していると言います。

新約聖書によれば、伝道とは単に福音を宣べ伝えることである。これはクリスチャンが自分自身を罪人に対する神のあわれみのメッセージの代弁者とすることに見るコミュニケーションの働きなのである[2]。

「伝道とは単に福音を宣べ伝えることである」ことです。注意深く考えることがなければ、簡単に「当然のことではないか」と言って聞き流してしまうことかもしれませんが、実は聞き流すことができない大切なことがここでは言われています。それは「福音」とはいったい何を指しているのかということです。私たちがこの定義を誤って理解するならば、それは何よりも危険なことなのです。パウロは福音を正しく述べ伝えることに関して、次のように厳しい言葉で警告を発しています。

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。(ガラテヤ1:6-9)

パウロが伝えた福音とは異なるメッセージが語られたとき、パウロはそのメッセージをはっきりと「キリストの福音を変えてしまおうとしている」と言います。そして真の福音に反することを伝える者は呪われるべきであると言うのです。これほどまでに厳しい警告がなされているとするならば、私たちは真剣に福音とは何を指すのかを正しく理解していなければなりません。
では、福音のメッセージとは何を指しているのでしょう。このことをパウロは言葉から考えてみましょう。パウロは福音のメッセージを要約して次のように告げました。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。(Ⅰコリント15:3-5)

この短い要約は私たちに福音がどのようなものであるのかを教えてくれますが、ここで記されている内容を考える上で一つ私たちが注視しておくべきことがあります。それはパウロは繰り返し使っている「聖書に基づいて」という内容の言葉です[3]。この言葉は私たちにパウロの要約は聖書に基づいて理解されるべきこと、聖書の真理の前提に立って理解すべきことを教えています。つまり、パウロは「単にこれらの歴史的事実を信じればよい」と言っているのではなく、これらの事実の意味を「みことばの真理に則して正しく理解しなければならい」と言っているのです。
そのことを念頭に置いて、パウロが伝えた福音を考えてみましょう。パウロが自分自身も受け、またコリントの人々にも伝えたこととして、まず最初に挙げるのは「キリスト」です。パウロはここで、「イエス」という名前ではなく、「キリスト」というタイトルを使いました。このタイトルを使うのは、キリストが誰であるのかに言及しようとしているからです。この言葉は旧約聖書のメシアに相当する言葉です。そしてここで特筆すべきことは、旧約聖書の預言を通して私たちはこのキリストが神であることを知るということです。聖書は次のように教えています。
見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。(エレミヤ23:5-6)

エレミヤのこの預言はメシアが誰であるのかを理解する際に非常に重要な預言です。ダビデの若枝(メシア)が起こされ、その人物が王になることが告げられています。そしてこの王は「主は私たちの正義」と呼ばれるというのです。日本語ではこの重要性を理解しがたいかもしれませんが、ここで使われている「主」は、神を主と呼ぶときに使うYHWHという言葉です。つまり、エレミヤはここでダビデの若枝として王座に就き、イスラエルを治めるこのメシアは神であると告げるのです。
これ以外にも多くのみことばがメシアの神性を私たちに教えています。たとえば、イザヤは生まれ来るメシアについて次のように預言します。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:6-7)

イエスご自身も、パリサイ人たちとのやりとりの中で、ダビデの言葉を用いてご自分の神性を次のように訴えました。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:42-45)

パウロは「キリスト」という言葉を選択することを通して、この方がどのような存在であるのかを言及しています。キリストは単なる人ではなく、神であるというのです。そして、このことはさらなる理解を私たちに求めます。それは、神がどのような方であるのかということと、どのように(またはなぜ)神が人となられたのかということです。単に「キリストは神です」と言ったとしても、正しい神観を持たない人物にとって、それは何の助けにもなりません。それ故に神がどのような方なのかを聖書に基づいて正しく理解することは、パウロが語る「キリスト」を理解する上で必要不可欠なことなのです。パッカー師はこのことに関して次のように述べています。

福音は神についてのメッセージである。それは私たちに、神がだれであるか、神のご性格がどのようなものであるか、神の標準が何であるか、神が被造物である私たちに何を求めておられるかを告げている。またそれは、私たちが自分の存在自体を神に負うものであること、よいことについても悪いことについても私たちはいつでも神の御手の中に、御目の下にあること、そして私たちを礼拝し、仕え、賛美をささげ、ご自身の栄光のために生きるようにつくられたことを告げているのである[4]。

パッカー師が言う「福音は神についてのメッセージである」というのはとても的確なものです。この「聖書的神観」が欠落してるならば、そこには聖書的福音は存在しません。絶対的主権者であり、創造者である神の存在を抜きに福音は存在しません。なぜならば、福音は神の働きの知らせであるからです。もし「神が人を救う」というすばらしい知らせの主語が抜けていたら、私たちの語る福音は、パウロが伝えた福音とは大きく異なるものになるのです。
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[1] 広辞苑 第五版 (C)1998,2004  株式会社岩波書店「伝道」
[2] J. I. Packer, Evangelism and the Sovereignty of God (Downwers Grove, IL: Interversity Press, 1961), 41.
[3] 原文では、3節の「聖書の示すとおりに」も、4節の「聖書に従って」も同じ表現が使われています。
[4] J.I.パッカー著、「伝道と神の主権」内田和彦訳(いのちのことば社、1977)、64頁。