どのように天国に属する人は祈るべきなのでしょう。イエスは模範となる祈りを弟子たちに教えていく中で、最初に神に焦点が向けられた祈りを3つ教えました。天国民が最も優先すること、最も待ち望むこと、最も願うことが何であるかを、イエスはそこで弟子たちに示されていました。「弟子の祈り」の後半は、私たちの必要に焦点が当てられています。どのような祈りを私たちは捧げていくべきなのか、私たちが自分たちの必要に目を向けるときに、知っておかなければならない大切なことをイエスは教えてくれます。

これまでも何度か見てきたように、祈りとは私たちの必要を神に訴えるために存在するのではありません。神は私たちの必要をすでに十分知っておられるので、私たちがそれを神に教えなければならないと考えるのは明らかに間違った発想です。神は全てを支配しておられる方であることを私たちは忘れてはいけません。祈りの中で私たちの必要を神に訴える時でも、神が誰であるのかを忘れてはならないのです。それゆえに人の必要に焦点が当たっているこのセクションも、イエスは決して神から目をそらそうとはしません。

肉体的必要を求める

現代日本に生きる私たちとは違い、日当での生活を行っていた当時の人々は、一日の終わりに賃金を受け、それでその日(または次の日)の食事を購入していました。また農耕に従事する人々が多くいたので、「日ごとの糧を今日もお与えください。」という祈りは、単なる詩的表現ではありませんでした。「糧」と訳されている言葉は「パン」という単語が用いられています。そしてこの言葉は、人の生活を支えるあらゆる肉体的必要を指して使われています。つまり、これは単に「食べ物を与えてください。」という願いではなく、「あらゆる肉体的必要を満たしてください。」という願いなのです[1]。
このような祈りは、次の日の食事を保証されることがなかった当時の人々にとって必要な祈りだったのは間違いありません。しかし、食料が周りにあふれるほどある現代日本において、いったいこの祈りはどのような意味があるのでしょう。「日ごとの糧をお与えください。」という言葉は、冷蔵庫に食料が有り余るほど収められている私たちに、どのような祈りの模範となっているのでしょう。
まず私たちが覚えなければならないことは、誰が私たちの必要を与えているかということです。イエスが「お与えください。」と願っているのは明らかに天におられる父なる神です。自分の働いた分でその日の食事を準備すれば、人は自分が食事を備えたと考えるかもしれません。しかし、この祈りはそのような高慢な態度を持ったままでは祈れないのです。神が私たちの必要を与えておられるということを、私たちはしっかりと理解していなければなりません。また「お与えください。」という言葉は、私たちの日々の食事という最も根本的な必要すら、神の賜物であることを私たちがしっかりと意識していることを前提としています。私たちの力で何かを得るのではなく、神の与えてくださるすばらしい恵みの故に、私たちの日々の生活は支えられているのです。
こうしたことは私たちに神への完全な依存という大切な原則を教えます。たとえそれがどれだけ小さな必要であったとしても、神の働きなしではそれらが実現することはありません。パウロは、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Ⅰコリント4:7)と言って、私たちが得るすべてのものが与えられたものであることを教えます。またヤコブは「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:18)と告げています。私たちの生活におけるあらゆる必要を神はその恵み深さの故に私たちにお与えになっているのです。
神はすべての人にこのような恵みを与えなければならない義務はありません。罪を犯し、神に逆らう私たちに対して、神は裁きを与えるべきで、様々な良い贈り物をする義務は一つもないのです。しかし、天国民に与えられている何よりもすばらしい特権の一つは、神が私たちにこのような祝福を約束してくださっているということです。詩篇37篇でダビデは悪者と正しい者の対比をしています。主に信頼し(3節)、主を喜び(4節)、自分の道を主にゆだね(5節)、主を忍耐強く待ち望む(7節)、そのような者たちに対して主は確かに天の御国を約束しています。こうした地を受け継ぐ者たちに対して、神は常に必要を満たしてくださるので、ダビデは「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」(37:25)と言います。ダビデはその生涯の中で敵に追われ、逃亡生活を余儀なくされたこともありました。しかし、彼はそのような中にあっても、神がいかに彼を守り、導き、最善を与えてくださっていたかをよく理解していたのです。
ここでイエスはもう一つ大切なことを私たちに教えています。それは神のすばらしい恵みは日ごとに与えられるということです。週単位、月単位、または年単位で私たちは神に信頼し、神の恵に期待するのではないのです。今日、この日、神が私たちの必要を備えてくださることに感謝し、それに満足を覚える生活を私たちが送るならば、私たちは多くの不安や苛立ちから解放されるでしょう。このような態度を持って「今日、私の必要を与えてください。」と朝祈り、「明日の必要を満たしてください。」と夜に私たちが祈ることができるならば、それは私たちがいかに主に信頼し、神が最善をなさる方であるのかに満足を見いだしているかを証することでしょう。

霊的必要を求める

肉体的、物理的必要を求めることは確かに必要なことです。しかし、それだけですべてが満たされるわけではありません。肉体的必要があるのと同様に、そこには霊的必要があります。「日々の糧」が与えられることによって肉体的に支えられたとしても、それだけでは十分ではないのです。人には「罪の赦し」という大きな霊的必要があるのです[2]。
12節に記されている「負いめ」という言葉は、「負債」と訳すことができる言葉で、新約聖書では金銭的な負債はもちろん、道徳的、霊的な負債(罪)を表す言葉として用いられています。つまりここで罪は、神に支払わなければならない道徳的、霊的な借金としてとらえられているのです。
天国に属する者たちに対して、「私の罪をお赦しください。」と祈ることを教えるのはひょっとすると不思議だと感じる人がいるかもしれません。特に私たちクリスチャンはすでに罪が赦された者として、天の御国に入ることが約束されているのです。しかしここでイエスが語っていることを文脈から離して考えてはいけません。イエスはここでご自身の十字架の死による罪の赦しと贖いの話をしているわけではないのです。天国に属する者として、毎日の生活の中で犯す罪と私たちがどのように接していくかが問題とされていることなのです。
「日々の糧」が私たちに必要なように、「罪からの赦し」が日々必要です。「心の貧しい」(5:3)、「悲しむ」(5:4)、「心のきよい」(5:8)天国民は、日々の生活の中でいかに自分が神の前に負債を増やし続けているかを正しく認識します。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:18)というパウロの告白はパウロだけの現実ではなく、救われている私たちすべての問題です。ヨハネは、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いて[おり]・・・、もし、罪を犯していないというなら、私たちは神を偽り者とするのです。」(Ⅰヨハネ1:8, 10)と言います。救われた今も、私たちは罪を持ち、実際に罪を犯しながら生きているのです。それ故に、神の前に負債を積み上げていく私たちに必要なのは、その負債を赦してもらうこと以外にありません。何にもまして、神に喜ばれたい、神の栄光を現して生きていきたいと願っている天国民はこのことを何よりも求めるはずです。
偽善者たちのように、「私には罪はありません。」といった態度で生きるのではなく、天国民は「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)という言葉通り、主の前に「私の負債をお赦しください。」と祈り続けるのです。
イエスがここで加える言葉は、私たちを混乱させるかもしれません。「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(6:12b)という言葉と、祈りの後の説明として加えられている14–15節の言葉は、まるで私たちが他の人を赦すことによって神からの赦しを受けられるかのように書かれているからです。しかしイエスが教えていることは、「私たちが赦せば、神も赦してくださる。」ということではありません。むしろ教えられていることは「赦さない者に、赦しは与えられない。」ということなのです。
12節の「赦しました。」という動詞は、すでに起こったことを表現しています。つまり天国民は、神に「赦してください。」と願う前に、赦しを与えていることを示しています。天国民は赦す人なのです。なぜこのことが重要なのでしょう。この弟子の祈りは、「かなえられるか分からないけど、とりあえず祈っておこう。」といった態度で祈られる祈りではありません。みこころに沿って必ず起こるという確信と信頼をもって祈られる祈りです[3]。ではなぜ、神が私たちを赦してくださるという大いなる期待と確信と信頼をもって祈ることができるのでしょう。それは私たちが神によって赦され、それ故に人を赦すことを学び実践しているからなのです。マタイ18:23–35でイエスが語ったたとえにもあるように、本当に悔い改め、罪の赦しを与えられた者は、自分が赦されたのと同じように人を赦そうとする人生を歩み始めるのです。
14節と15節に書かれている条件節は、論理的関係を表すものとして用いられています[4]。ここでは天の父がなぜ赦すのかという理由が記されているのではないのです。もし人が神の赦しを知っているが故に(理由)、誰かを赦すなら(条件)、神は赦しを与えてくださいます(結果)。しかし、相手を赦さないなら(条件)、神も赦しを与えません(結果)。それは、その人が神からの赦しを知らないからなのです(理由)。「あわれみ深い」(5:7) 天国民は、自分の敵をも愛します(5:43ff.)。「平和をつくる」(5:9) 天国民は和解のために、人の悪を思わず、赦しを求める人に赦しを与えようと願います。
ですからここでイエスは神からの赦しを受けるには、人を赦す行為が必要であることを言っているのではありません。主が告げることは、天国に属する者は、神が赦すのと同じように人を赦す態度を持っている人であることを教えているのです。「私を赦してください。」という自分だけに目を向けた思いからこの祈りは捧げられるのではないのです。人を赦したいという願い、またその実践が、神からの日々の赦しを与えられることを確信する祈りへとつながっていくのです。ある聖徒は次のような祈りを捧げました[5]。

主よ、あなたの平和の道具として私をお使いください。 憎しみのあるところで、私に愛を蒔かせてください。 害が与えられるところで、赦しを、 疑いのあるところで、信仰を、 絶望のあるところで、希望を、 暗闇の中で、光を、 悲しみに満ちたところで、私に喜びを蒔かせてください。 あぁ、偉大なる主よ、どうぞ私に許可を与えてください。 私が慰める以上に慰められることを求めることがないように。 私が理解すること以上に理解されることを求めることがないように。 私が愛すること以上に愛されることを求めることがないように。 なぜなら与えることによって、私たちは受けるのだから、 赦すことによって、私たちは赦されるのだから、 そして死んでいくことによって、私たちは永遠のいのちに生まれるのだから。

私たちはこのような態度で、この祈りを捧げていくべきなのです。

守りを求める

イエスが最後に模範として示す祈りの内容は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」です。ここでも、訳されていない「そして」という接続詞が使われています。私たちが犯す日々の罪が赦されるだけでなく、これから起こるであろう様々な試みから守られることを求めるように祈っているのです。
「いったいどうして神が人々を誘惑に導くのか[6]。」という疑問がわき上がるこの箇所は、解釈上の難点としてこれまで多くの意見があげられてきました。しかしここで言われていることは、いくつかの事柄をはっきりとさせることで、理解することができるのではないかと考えます。
一つは「試み」と訳される言葉が何を指しているかということです。この言葉は多くの場合否定的に捉えられ、「誘惑」という意味で用いられます。しかしこの単語は同時に肯定的に捉えて、「試練」と訳すこともできるのです[7]。つまりここでイエスは神が私たちを誘惑に導かないように懇願しているのではなく、試練に会うことがないように願っていると考えることができます。
また次に出てくる「お救いください。」という動詞は、継続的救いを求める懇願ではなく、一時に起こる、特別な解放を現す表現が用いられてきます。つまりイエスは前半部分で、試練に会わないように願い、後半部分ではそのような試練に会うときに、悪の手に陥ることがないように祈っているのです。
ヤコブははっきりと、「誰でも誘惑にあったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません。」(ヤコブ1:13)と教えます。神は人に誘惑を与えることはなさらないのです。しかし、神は試練を天国民の成長のために与えます。そしてヤコブはその試練を「この上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)と告げるのです。これはまさにこの山上の説教でイエスが教えることと同じ概念の下にあるのです。
私たちは誰も、試練が与えられることを望みません。むしろ、平安な生涯が常にあることを願う者です。常に平坦で、安らぎに満ちた道を主に導かれることを私たちは心から望みます。しかし、私たちの成長のために、主は私たちを「死の陰の谷」に導くことがあります。そのようなときに、私たちの成長を促す祝福として与えられている試練が、私たちを躓かせる誘惑とならないように、主はここでこの懇願をしているのです[8]。
私たちの弱さ、愚かさをよくご存知である主は、このような模範となる祈りを天国に属する者に教えてくださいました。父なる神は私たちの肉体的な必要にも、霊的な必要にも、確かに答えてくださるすばらしい神です。その方を信頼し、感謝しつつ祈ることが、この祈りの模範に沿って祈ることなのです。また神は私たちが成長し、より主の栄光を現す者となるために、私たちが悪から守られるよう助け支えてくださいます。必要であるならば、私たちは試練を受けます。その中で私たちがしっかりと主に従順なことを証明することができるように、私たちは主に倣って祈り続けなければならないのです。
このような祈りは偽善者たちが捧げていた祈りとは大きく異なるものでした。そしてこうして主に受け入れられる正しい祈りを捧げる者こそが、律法学者やパリサイ人の義にまさる義を持つ、真の天国に属する人なのです。
 
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[1] この後の文脈にも出てくるとおり、神は私たちのすべての必要をよく知っておられます。単に食物だけでなく、衣類、住居、など様々な必要が人にあることを主は確かに知っておられるのです。
[2]このことを表すために原文では「そして」という接続詞が12節の文頭で使われています。
[3] すべての祈りはこのようなものであるはずです。
[4] もしAということが起こるなら、Bということが必然的に起こるでしょう。という関係。 Cf. Daniel B. Wallace, Greek Grammar Beyond Basics, 697-98.
[5] D. A. Carson, Jesus’ Sermon on the Mount, 75.
[6] 13節の前半を直訳すると、「私たちを誘惑(または試練)に連れて行かないでください。」となります。
[7] ヤコブ1章でこの言葉が「誘惑」と「試練」の両方に訳されていることからもこのことが分かります。
[8] ヤコブ1章をよく吟味してください。