イエスが「こう祈りなさい」と教えた祈りは、私たちの祈りの模範となるものです。主はこの祈りを弟子たちに教えることを通して、私たちが天国民としてどのようなことをどのような態度で祈るべきなのかを示してくれています。この祈りは、ただ繰り返し唱えるために与えられたものではありません。暗唱し、この言葉の通りに祈ればよいというものではないのです。天に国籍を持つクリスチャンは、ここでイエスが教えていることを正しく理解し、天に属する者としてふさわしい祈りをすることができるようにならなければなりません。
イエスが教えた「弟子の祈り」には6つの懇願が記録されています。そしてそれは神に焦点を当てた3つの懇願と人に焦点を当てた3つの懇願に区分することができます。ここではまず、神に焦点を当てている最初の3つに関して考えていきます。

天国民がもっとも優先すること

イエスが弟子の祈りの中で最初に求めることは、「御名があがめられますように。」ということです。ユダヤ人にとって名前は単に呼称であっただけでなく、その人の人格や特徴、つまりその人すべてを象徴するものとして用いられていました。それ故に旧約聖書で主が自らの名を告げられたり、特定のタイトルで呼ばれたりするとき、それは神が持っておられる特徴を顕著に示すものとして用いられているのです。
日本語ではここで「あがめられる」という表現が使われていますが、原文では「聖める」という動詞の受動態が使われています。つまり「神ご自身が聖められるように」と祈っているのです。しかし、「神が聖められる」とはどういう意味なのでしょう。神は完全に聖なる方ですから、これ以上聖くなることはありません。ですから、神がより聖くなることを求めている訳ではありません。ではいったい何をイエスは教えているのでしょう。イエスはここで「父なる神が聖であることを人々が認め、応答し、その行動や態度を通して主を侮蔑しない」ことを告げています。つまり「あなたの御名が聖とされますように。」とも訳すことができる第一番目の願いは人々が神を神として認め、その聖さを知り、主を正しく崇め、神に栄光を帰すことなのです。
この祈りの究極的な回答は神の御国の到来を待たなければなりません。イエス・キリストが王として再びこの地上に来られるとき、主の御名は確かにすべての人から聖なるものとして崇められます。では今の時代に、この祈りがかなうことはないのでしょうか。今、いったいどのようにして人々が正しく神の御名を聖と認めるようになるのでしょう。
この祈りを祈る者は、何よりも神が聖であることをよく理解していなければなりません。「御名が聖とされますように」と祈りながら、主が聖なる方であることを自分自身が正しく理解していなければ、自らがこの祈りの成就を妨げている存在になります。つまり、祈る私たちが、神がどのような方なのかを知り、この方が私たちとは全く違う、完全で偉大な神であることをよく分かっていなければ、この祈りが実現されないどころか、この祈り自体が偽善的なものになってしまうのです。
また神が聖であることを知っているだけでなく、知っているがゆえにこの方を心から崇める者となっていなければ、そのような祈りの言葉もまた偽善的なものです。つまり神であることを認めていながら、この方を心から讃えて生きて行こうとしていなければ、「御名が聖められますように」という言葉は意味のないものになっているのです。神が「確かに神である」と認める者は、この方の前に忠実に歩んでいこうと願い、主に従順な生涯を生きて行こうと心がける者です。そしてこの祈りをする者が確かにそのように歩んでいく時に、周りの人々は神のすばらしさをその人の生涯に見出し、神の聖さが明確に示されていくのです。つまり天の御国に属する者は、この祈りを捧げるとき、「主よ、どうか私があなたの聖さを知り、それを認め、あなたを心から拝する人にしてください。」と願っています。また主の聖さが知れ渡るように、「どうぞ私を通してあなたの聖さを告げ知らせてください。」と求めているのです。
聖なる神に仕える者として贖われている天国民は、神が聖であるように自分たちも聖であることを願っています。あらゆることを神の栄光のためにすることを求めている天国民は、自分の態度、言葉、行動を通して、神の御名が崇められることを切に願っているのです。これこそがもっとも優先される天国民の祈りの内容なのです[1]。

天国民がもっとも待ち望むこと

2番目の願いは「御国が来ますように。」というものです。「王国」、「支配」、または「王政」と訳せる言葉がここでは使われていますが、これは単に神の支配がこの地上にあるようにという祈りではありません。文脈からもはっきりするように、ここで言われていることは、ユダヤ人たちが待ち望み、バプテスマのヨハネやイエスが「近づいた」と言ったメシアによる王政、天の御国のことを指しています。そして「御国が来ますように。」と祈ることは、神の計画が完全に達成されることを心から願い、王の王、主の主が完全な統治をなしてくださることを切に求めることなのです。このように祈る人は、神の計画を第一とし、何よりも神の計画がなされるために生きている人なのです[2]。
ある牧師はこの箇所で次のようなコメントを残しています。
なんと私たちの普段の祈りは自己中心的なのでしょう。私たちの必要、私たちの計画、私たちの希望、私たちの理解に焦点が当てられているのです。私たちはまるで自分の感情と欲望という世界以外知らない赤子のようです[3]。
天国民の祈りは神の計画を待ち望み、その実現のために用いられることを心から願う祈りです。天国民が待ち望んでいるのは神が約束しているやがて来る完全な義の王国の到来であり、主による完全な支配であり、神の計画の完成なのです。「私の計画がなされるまで、主よ、もう少し待ってください。」や「私の願いが叶ってから、御国が来ますように。」というような、自分の願いの達成を神の計画の達成以上に願う祈りは、真の天国民のするべき祈りではありません。
確かに神の御国の完全な到来は未来のことがらです。しかし、その御国のすばらしさを知っている天国民は「主よ、来てください」(1コリント16:22)と祈り、自分の願望の実現以上に神の御国の前進を求め、この御国に加わる人々が与えられるように働き続けることを祈るのです。

天国民がもっとも願うこと

3番目に記されていることは、「みこころが天で行われるように地でもおこなわれますように。」ということです。ここでの主文は「みこころが行われますように。」ということです。ここで訳されている「行われる」という言葉は「実現する」と訳すことができる言葉で、直接的には神の御名が完全に聖いと認められる神の御国の到来によって、あらゆる神のみこころが余すところなく実現されることを求めています。しかし同時に「みこころが実現するように」という祈りは、王国の到来を待つ今、天国に属する者たちが神のみこころをこの地上で実現していくことにも関連しています。
神はその完全な計画の中で、今罪がこの地上にあることを認めておられます。そのような罪を通しても、神は最善をなすことができる方なのです(参照:創世記50:20; イザヤ10:5-19)。しかし罪が存在する故に、神の究極的な計画 [絶対的なみこころ]はどんな状況でも完全になされますが、神の求めていること、また命令 [指導的なみこころ]は遂行されないことがあります[4]。「みこころがなされるように」という祈りが、まさにこのことを明確に教えています。御国の到来の日まで、神の指導的みこころの完全な実現を見ることはありません。しかし、それを天国民は切に求めているのです。
「みこころがなされるように」という言葉を私たちも祈りの中でよく使います。この言葉を用いるとき、私たちは自分の心をよく吟味しなければならないでしょう。「どうせ、あなたの[絶対的な]みこころしか起こらないのだから、祈ってもしょうがない。」といった運命論主義的な考えで私たちがこの言葉を用いるならば、それは弟子の祈りで教えられている祈りとは大きく異なるものです。天国民となった私が、天においてみこころが完全な形で実現しているのと同じように、この地上においても、主が私たちの心を支配しているが故に、主の願い[指導的なみこころ]が私たちの生活の中で実現するように願うことは当然のことなのです。
残念ながら私たちが「みこころがなされるように」と祈るとき、私たちは「私の思いがあなたのみこころになるように」と思って祈っています。しかし私たちは「あなたのみこころが私の願いになるよう」と祈るべきなのです。そしてみこころが地において、何よりも天国民の生涯に実現されるために、[指導的な]みこころが何であるかをしっかりと知る必要があります。つまりみことばを学んでいく必要があるのです。聖書は神が私たちに求めていること(みこころ)が何であるかをはっきりと教えてくれています。神のみこころを知らなければ、みこころがなされるようにと祈ること自体が偽善的な行為なのです。
また同時にもし私たちが心から神のみこころがなされるようにと願うならば、この祈りを口にするとき、私たちは、「私の知識の限り、あなたの恵みによって与えられる力に助けられて、私はあなたの示すみこころを実践していきます。」という誓いをしているのです。
 
私たちの祈りは、神の御名があがめられ、神の計画が速やかに実現し、神のみこころが完全に達成されるというところに焦点が置かれていなければなりません。もしそのような祈りを祈っていないとするならば、どれだけ「主の祈り」を唱えたとしても全く意味のないことなのです。
 
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[1] 私たちはイエスがここで「私を聖くしてください。」と祈っていないことに注目するべきです。焦点はあくまでも私たちに起こることを期待するのではないのです。優先されることは私たちが聖くなることではなく、神の御名が聖なるものとされることであるのです。
[2] 確かにここで教えられていることは、未来に到来する神の御国のことです。しかし、適用として今この瞬間にもその現れを見ることができるでしょう。人が救われるとき、そこには天国民の誕生を見ることができます。御国が広がっているのです。また人々が忠実に神に従って生きていくとき、そこには天国の具体的な現れを見ることができるのです。
[3] John F. MacArthur, Matthre 1-7, 379.
[4] 神のみこころと言うときに私たちは大きく2つのみこころを念頭に置いておかなければなりません。一つは絶対的みこころで、もう一つは指導的みこころです。絶対的みこころは神が支配し、計画していることが必ず起こるというものですが、指導的みこころは、神が願っていること(人が救われること)や神が命じていること(嘘をつかないこと)など必ずしも実現しないことも含みます。