天国民はどのように祈るべきなのでしょう。同じ言葉を繰り返し、意味の無い祈りを捧げるのではなく、主が心から喜んで聞いてくださる祈りを捧げるために私たちは何を願っていくべきなのでしょう。その答えをイエスはマタイ6:9–13で一つの例を挙げて示してくれています。それが一般的に「主の祈り」として知られている祈りです。偽善者たちの間違った行動について語っている文脈の中で、イエスはいったんその主題を横に置いて、祈りに関する大切な教えをなしているのです[1]。

ここで私たちが忘れてはならないことは、この祈りが誰に教えられた模範であるかということです。この祈りを私たちは「主の祈り」と呼びますが、これは主が祈った祈りでないことは明らかです。「祈りなさい」という命令を受けているのは、このメッセージを聞いていた弟子たちなのです。ですからこの祈りは「主の祈り」と呼ぶよりも、「弟子の祈り」と呼んだ方が正しいでしょう。またこの祈りの内容を吟味するときに、このメッセージ全体の主題を忘れてはいけません。天の御国に関する教えがされている山上の説教は、神がイスラエル人に約束した王国に関する教えが中心となっています。そしてこの祈りもその王国に関する概念を無視して理解することはできません。

イエスの教えた祈りの模範には、王国に関連する6つの願いが含まれていました。それらは前半3つと後半3つに分けることができます。これによって大きなアウトラインを作ることができますが、この祈りはこのような分け方以外にもいくつかのアウトラインを見いだすことができます。しかし間違いないことは、この祈りでイエスは前半部分で神に焦点をあて、後半では人に焦点をあてています。これらは天国民の祈りの優先順を教えていると言うことができるでしょう。これらのことをしっかりと理解して、イエスが模範として示している祈りを見ていきましょう。

祈る前に知っておくべきこと

イエスは「だから、こう祈りなさい。」と言って、弟子たちに模範となる祈りを教えました。この冒頭の言葉は私たちにいくつかの大切な事柄を教えます。

「弟子の祈り」は繰り返し唱えるべき祈祷文ではない

9節の冒頭に出てくる「だから」という言葉を見れば分かるように、イエスはこれまで語って来た内容に基づいて模範となる祈りについて教えています。すでに見たように、偽善者たちの祈りは異邦人たちの祈りのように無意味に言葉を並べているだけのものでした。そのような祈りをまねてはいけないと言った後で、イエスは「だから、こう祈りなさい」と言うのです。

このように「単なる言葉の繰り返し」を非難する文脈の中で教えられている「弟子の祈り」は、残念ながら主の意図するところをくみ取られずに、その内容がしっかりとした理解されないまま、ただ繰り返されることが多くあります。すでに二世紀にはこの祈りを日に3回繰り返し唱えるようにという教えが教会にはありました[2]。そして現在も多くの教会が祈りの意味をしっかりと考えることなく、この祈りの言葉を繰り返し唱えているのです。この祈りを暗唱することは悪いことではありません。ほかの聖句と同様、みことばに思いめぐらすことはよいことです。しかし、それが唱えなければならない祈りの言葉であると考え、単なる繰り返しになるならば、そのような祈りは明らかにここでイエスが教えたことに反する祈りなのです[3]。

イエスはここで祈り方(どう祈るか)を教えているのであって、祈りの言葉(何と言って祈るか)を教えているのではありません。新改訳聖書では「こう祈りなさい」と訳されているので、ひょっとすると「この通りに祈りなさい」と理解することがあるかもしれませんが、原文は「このように」や「同じ方法で」などと訳すことができる表現が使われています。イエスが言いたかったことは「これらの言葉を使って祈りなさい」ではなく、「これらと同じ態度や思いで祈りなさい」なのです。

「弟子の祈り」は継続的に祈られるものである

イエスは同じ言葉を用いて祈ることを教えていませんが、このような態度での祈りを常にするようにと教えています。「祈りなさい」という命令形の動詞は、習慣的にこの行為が継続されるべきものであることを教えるべく、現在形が使われています。つまりイエスはここで、「次のような態度で祈ることをあなたがたの習慣としなさい」と命じているのです[4]。私たちが祈るとき、常にこの「弟子の祈り」が模範となっていなければならないのです。私たちの祈りの内容が、ここに記されている祈りに基づいている必要があります。少なくともイエスはここで、天国民は祈るとき「弟子の祈り」を正しく反映した祈りを捧げ続けるべきであることを教えているのです。

ではいったい具体的にどのような祈りを私たちは捧げるべきなのでしょう。イエスはこの短い祈りの模範の中で非常に多くのことを私たちに教えています。

誰に対して祈るのか

具体的な祈りの内容を見ていく前に、まず私たちの祈りが誰に向けられるべきなのかを少し考えてみましょう。イエスが教えた祈りは「天にいます私たちの父よ」という言葉で始まります。これが誰に対して祈るのかをはっきりとさせます。そしてこの言葉を通して、イエスは私たちにここで3つの大切なことを教えてくれるのです。

「父」である方に祈る

神がイスラエルの民の父であることはイエスの言葉を聞いていた人々にとって未知なものではありませんでした。イザヤ書には「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」(イザヤ63:16) と記されています。この関係は「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103:13) とあるように、神が愛を持ってご自分の民に接してくださることを表現します。つまり天国民は、祈りの中で神の怒りをなだめるのではなく、父なる神の愛に訴えかけるのです。

このような関係を持っていたイスラエルでしたが、彼らは日常生活の中で神を父としての親しみをもってとらえることはほとんどありませんでした。しかしイエスはここで天国民にとって神は父であることを告げるのです。これは天国に属する者が、神によって生まれた者であるという新約聖書の教えを思い起こさせます。イエスは5:9で「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」と言って天国民が神の子どもであることをすでに教えていました。新約聖書は一貫してイエスを信じた者が神から生まれ(ヨハネ3)、神によって養子[5]とされ(ローマ8)、それ故に神を「アバ、父。」と呼ぶことができる者になったのです(ローマ8:15)。偉大なる全能者、すべての創造主であり支配者である神を天国に属する者は親しみを持って呼ぶことができるのです[6]。父が子を愛し、最善をもって接するように、神は父であるが故に、主に祈り求める天国民に最善をなしてくださるという確信を持って私たちは主の前に出て行くことができるのです[7]。

「私たちの父」である方に祈る

ここで私たちが気づくべきことは、イエスが教えている祈りは個人の祈りではないと言うことです。これは個人的な祈りをイエスが教えていないということではありませんが、天国民の祈りは利己的なものではないことを私たちに示唆します。ある神学者は次のようにこの箇所を説明しています。

私がキリストに従う者たちの一人として私たちの父に呼びかけるとき、私の思いは私のことがらだけでなく、私たちの日々の糧、私たちの罪、私たちの誘惑を包括しているのです[8]。

イエスが模範として提示された祈りは「私」に焦点が当てられたものではなく、「私たち」に焦点がある祈りなのです。「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」(Ⅰヨハネ5:1)とヨハネは言います。自分中心ではない祈りを捧げることが「私たちの父」に向かって祈るときの基本なのです。

「天にいます私たちの父」なる方に祈る

確かに私たちが祈るのは「パパ」と親しみを込めて呼ぶことができる主です。しかし、この親しみは私たちの父に対する態度をないがしろにするものではありません。軽々しい態度で神の御前に立つことは、当時のユダヤ人にとって考えられない行動でした。こうした背景の中で「天にいます」と記すのは、「父」という言葉を使うことによる親しみと神であられる方への正しい応答のバランスを弟子たちがしっかりと理解することを求められていたからでしょう。

イエスは「天にいます」という言葉を使って、神がどこにおられるかを表しているわけではないことに私たちは気づかなければなりません。イエスは、「この地上ではなく天という私たちと遠く離れたところにおられる神に呼びかけなさい。」と言っているのではないのです。神は遍在な方ですから、イエスがこのように語ったのは神がどこにいるかを示すためでなく、神の偉大さを理解していたからなのです。

私たちが祈りを通して父の下に出て行くのは、まるでイザヤやヨハネが天で主の栄光を見たときのようなものです。栄光に満ちた神の前に親しみのうちに出て行くことができることを知っている人は、そのあまりにも大きな特権の前に大きな感動と謙遜を覚えるのです。神は侮られてもよい方ではありません。残念ながら現代の教会の多くは、「天にいます父」に、地上の父と同じような態度で接する傾向があります。私たちは正しいバランスの下で、大いなる尊敬と親しみのうちに、主に向かって祈らなければならないのです。

 

[1] ちなみに非常に似た内容の祈りがルカ11:2-4にも記されています。しかしそこでの状況は明らかに山上の説教の時と同じではないことから、イエスが少なくとも2回、同じ内容の教えを違う状況の中で行ったことを見て取ることができます。こういったことからも、祈りに関する教えに弟子たちが興味を持っていたこと、またここで教えられている模範の重要性などを理解することができるでしょう。

[2] D. A. Carson, Jesus’ Sermon on the Mount, 66.

[3] 事実、聖書の中に弟子たちや教会が同じ祈りを繰り返し祈ったことはいっさい記されていません。

[4] Daniel B. Wallace, Greek Grammar Beyond the Basics (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1996), 722.

[5] ローマ8:15, 23; ガラテヤ4:5などで「子としてくださる」また「子にしていただく」と訳されている言葉は「養子とする」というギリシャ語が使われています。

[6] 「アバ」というアラム語の言葉は、「パパ」に相当する言葉です。

[7] ローマ8:32でパウロが語ることはまさにこのことを私たちにはっきりと教えます。

[8] D. A. Carson, Jesus’ Sermon on the Mount, 66-67.