偽善者たちの祈りは神からの報いを受けるものではありませんでした。それは彼らが神に向かって祈っていたからではなく、人からの賞賛を得るために祈っていたからでした。しかし天国民の祈りはそれが公の場での祈りであっても、誰もいないところでの祈りであっても、神に向けられた祈りであることをイエスは教えました。どこで祈るのかが問題ではありません。どのような態度で、誰に向かって祈るかが問題なのです。
ただイエスが指摘する祈りに関する問題はこれだけではありませんでした。実は人々の祈りの内容にも問題があったのです。イエスは次のように言って、このことを指摘します。

また、祈る時、異邦人のように同じ言葉をただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:7–8)


確かに7節でイエスは「異邦人のように」と言って異教の祈りに関して言及しているように見受けられますが、ここでイエスが伝えようとしていることは、単に異教の祈りをまねてはいけないというような単純なものではなかったでしょう。なぜなら、このような祈りは当時のユダヤ教の中にも、また現代のキリスト教会の中にも多く見受けることができるからです。ではどのような祈りが「異邦人のよう」な祈りなのでしょう?最初にイエスが言うことは「同じことばを、ただくり返してはいけません。」というものです。
ここで「同じことばをただくり返す」と訳されている言葉は「「べらべら」というような擬音がもとになっている動詞で、意味なくただ単にくり返される音の羅列を表しています[1]。同じことを唱え続けることの無意味さを指摘しているのです。イエスがここで偽善者と呼ぶ律法学者やパリサイ人は、このような祈りを捧げていました。彼らは必ずシェマ(申命記6:4-9; 11:13-21; 民数記15:37-41)を朝晩唱え、シェモーネ・エスレーという18の祈祷分を一日3回斉唱していました[2]。それだけでなく、彼らはあらゆる機会に祈ることができるように、様々な祈祷文を定めていました。それらは、「食後の祈り、光、火、電光に関する祈り、新月、彗星、雨、嵐の時の祈り、海、湖、川を見たときの祈り、吉報を受けたときの祈り、新しい家具を使うときの祈り、町に出入りするときの祈り[3]」など、ありとあらゆる時に祈るための文章が定められていたのです。彼らの祈りの多くは、単に意味のない言葉の繰り返しでしかありませんでした。その無意味さをイエスはここで指摘しているのです。
祈祷文を暗唱することは、それ自体が悪い、間違ったことではありません。特にシェマなどのみことばを自分の祈りとすることは間違ったことではないでしょう。しかし、それが形式的にまた機械的に行われるとき、その祈りは意味のない音の羅列でしかないことを私たちはしっかり覚えておかなければならないのです。異邦人やユダヤ人と同様に、私たちクリスチャンもただ祈祷文を繰り返し読むだけの祈りを捧げていることがあります。自分が祈っている言葉の意味をしっかりと考えず、心から祈られている事柄に同意せずに単に言葉だけを読み上げているならば、その祈りは神に喜ばれる祈りではありません。公式の祈祷文でなくても、教会で祈られている祈りが、誰が祈っていてもほとんど内容の変わらない祈りであるかもしれません。個人の祈りの中でも、習慣的に特に何も考えずに同じ言葉で祈っていることがあるかもしれません。もし祈りが主との交わりであるならば、同じ言葉を意味なく繰り返すことが神に喜ばれないものであることを理解することは難しいことではありません。決まった文言を機械的に、神を意識することなく唱えていることが私たちにもあります。食前の祈りや寝る前の祈り、教会での様々な祈祷などの中で私たちは習慣的に、神に心と思いを向けることなく祈ることがあるのです。心のない祈りも思いのない祈りも、神に対して侮辱的な祈りであることを忘れてはいけません。それゆえに私たちは何を祈っているのかをよく考え、心から祈る必要があるのです。
イエスの指摘は意味のない言葉の繰り返しに関することだけではありませんでした。二番目にイエスが告げるのは「ことば数が多ければ聞かれる」ということです。人々は長い祈りほど良いものだと考え、同じ言葉を繰り返し、祈りを必要以上に長々と唱えていたのです。長い祈りの方が短い祈りよりも良い祈りであると考えることがあるかもしれません。その方が熱心であるように見えるかもしれません。しかし、イエスはそのような考え方を否定しているのです。
多くの言葉を使って長く祈れば、神が祈りに答えてくださるというわけではありません。イエスの言葉はこのような人々の間違った考えに向けられていたのです。ここでイエスは同じことをくり返す祈りを捧げてはいけないと言っているのでしょうか?だとすればイエス自身が間違った祈りを捧げていたことになってしまいます[4]。ルカの福音書には根気強く祈り続けることをイエスがたとえを使って教えている姿が記されています(ルカ18:1-8)。福音書の著者たちはイエスが一晩中祈っていたことをたびたび記しています。ではいったい何が禁じられているのでしょう。それは長く、繰り返し祈ることではなく、私たちの心と思いが正しく神に向けられていない祈りなのです。本当の必要に基づいて心から熱心に祈られる祈りではなく、長く祈れば聞いてくれると思うこと、そのような間違った態度が問題になっているのです。私たちはパリサイ人たちの偽善を責める前に、自分たちの祈りを吟味しなければなりません。もしイエスが今の時代に、私たちに向かって語っているとしたら、偽善者という言葉に「パリサイ人」ではなくて、私たちの名前が入っているかもしれません。
ではいったいどんな祈りを捧げるべきなのでしょう?イエスは「だから、彼らのまねをしてはいけません。」(6:8)という言葉で、祈りに関する教えをいったんまとめます。同じ言葉をくり返し、祈りの長さ、言葉の量によって祈りがかなえられるなどと考えて、祈ってはならないのです。なぜなら神は私たちの必要が何であるかを私たちが祈り求める前から知っているからです。祈りとは神に私たちの願いを知ってもらうためにあるのではありません。そのことをここからはっきりと見て取ることができます。ここで使われている「知る」という言葉は学習した知識ではなく、すでに持っている情報に基づく知識のことを指しています。つまり神は私たちに教えてもらうまでもなく、私たちの必要が何であるかを知っておられるのです。祈りとは神に私たちの必要を訴えて神を説得する場ではなく、神の御前に立ち、神との交わりを持つためにあるのです。
7節で「聞かれると思っている」という表現をイエスは使いました。神を正しく理解していない異邦人は「特定の言葉で、長く祈っていれば神が祈りを聞いてくれる」と考えるかもしれませんが、神を正しく知っている天国民は、言葉の量や、祈りの長さによって神が自分たちの必要に耳を傾けてくださるのでも、特定の表現を使うことによって神が私たちに関心を払ってくださるのでもないことを理解しています。全知である神は私たちの必要が何かを私たち以上によくご存知です。ご自分の民を愛して止まない神は、私たちにとって最善なことを常になす方です。ですから私たちの祈りは神を知らない民のするような祈りではないのです。
祈りを通して私たちと真の交わりをすることを神は求めておられます。神は私たちの必要が何かをもう十分ご存じですが、私たちが神の前に自らの意思で出て行き、神に必要を訴えることを求めておられるのです。イエスは自らの生涯を通して神に受け入れられる祈りを教えてくださいました。主は人々の前でも祈りましたが、より多くの時間を個人的祈りに費やしました。イエスは時に非常に短い祈りを祈りましたが、同時に夜を徹して祈りを捧げることもしばしばありました。どのような場所で、どのような姿勢で、どのような時間に、どのような言葉で、どれだけの長さを祈りに費やしたかは問題ではありませんでした。問題は神の前に正しい心と思いを持って祈っているかということなのです。ある牧師は次のようにこの箇所をまとめています。私たちはこの言葉をしっかりと心に刻むべきでしょう。

正しく祈るとは、熱心な心ときよい動機によって祈ることです。それは他の人々ではなく、神のみに焦点を当てた祈りなのです。そして、それは私たちの天の父が信仰によって神に告げられるすべての願いに耳を傾け、答えてくださるという偽りない確信とともに捧げられる祈りなのです。神は常に私たちの心からの熱心さに、恵み深い対応を持って報いてくださいます。もし私たちの願いが熱心なものであっても神のみこころに沿っていなければ、主は私たちが求めまた期待することよりも遙かに優れた方法で答えてくださいます。しかし、神は必ず答えてくださるのです[4]。

 
[1] それゆえに「異邦人のように無意味な繰り返しをしてはいけません」と訳すことができます。
[2] ウィリアム・バークレー著、松村あき子訳、「マタイ福音書 上」(東京、ヨルダン社、1969)二〇五-十二頁。
[3] 同上、二〇七頁。
[4] ゲッセマネでイエスは「この杯を取り除いてください。」と三度祈っています。
[5] John MacArthur, Matthew 1-7, 370.