パリサイ人や律法学者の祈りは、神に向けられた祈りではありませんでした。彼らは人からの賞賛を受けるために祈っていたのです。このような祈りは神に向けられた祈りではなく、人に向けられた祈りでした。イエスはこのことをマタイ6:5で厳しく指摘しています。このような偽善者の祈りが神に受け入れられることはありません。なぜなら人からの賞賛を受けるために人前で演じられる祈りは、神からの報いを受けることのできるものではなく、人からの賞賛だけで終わってしまうからです。
ではいったい天国に属する者はどのような態度で祈るべきなのでしょう。イエスはそのことを6節で教えています。ここでイエスは「施し」に関する教えの時と同じように(6:3)単数形の「あなた」という言葉を使っています[1]。しかもここでは特にこの「あなた」という言葉が強調されています。直訳するならば、「しかし、あなた、あなた自身が祈るとき・・・」となるのです。この単数形への移行はイエスの祈りに関する教えが個人的な適用を持っていることを意味します。弟子たち一人ひとりが個人として、祈りを捧げるときにどのような態度で祈るべきなのかが語られているのです。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。マタイ6:6

ここでイエスはできる限りの対比をしようとしているように思えます。偽善者たちが、大勢の人々の前で祈ろうとしていたのに対して、イエスは「自分の奥まった部屋にはいりなさい。」と言います。そして「戸をしめて」祈るように命じるのです。この「奥まった部屋」とは当時のユダヤ人の家にあった小さな物置部屋を指します。このような部屋は高価な物を隠しておくために使われてることもありました。つまり、誰にも知られることのない最も人前から遠ざかったところの話をしているのです。
時にクリスチャンの間で、このような「祈りの小部屋」に入って祈ることが推奨されますが、イエスが言いたかったことは「このような部屋に入って祈りなさい。」ではありませんでした。もちろん、こうした部屋に入って祈ることはそれ自体が悪いことではありませんが、主がここで教えていることは「どこで祈るか」ではなく、「誰に向かってどのような態度で祈っているか」であることを忘れてはいけません。
私たちは誰に向かって祈っているのかがここで問われています。偽善者たちは人に見られるために祈っていたのに対して、天国に属する者は彼らの父に祈るのです。ある注解者はこのイエスの言葉を正しく理解するために、次の質問を自分たちにするべきだと言います。

私は公の場で祈るときよりも神と二人だけの時に、より多く、より熱心に祈っているだろうか。私は誰にも知られることのない祈りの場を愛しているだろうか。私の公での祈りは個人の祈りから溢れ出たものだろうか。もしこれらの質問に対する答えが断然とした肯定でないなら、私たちはテストに落第し、イエスの非難の対象となるのだ。私たちこそ偽善者なのである[2]。

私たちが主に祈るとき、その祈りは自分やほかの人たちに注目するのではなく、神だけに集中されているものでなければならないのです。そのために私たちはありとあらゆることをするべきなのです。奥まった部屋にはいり、扉を閉めるのは、自分と神以外の何者もそこにはいることができないことを示唆します。そのように私たちは祈るときに神との個人的時間を持たなければなりません。私たちの神は遍在な方ですから、「隠れたところにおられる」という言葉は、公の場にはいないという意味ではありません。主によって贖われた者の祈りを神はどこででも聞いてくださるのです。しかし、ここでイエスがこのような言葉を加えたのは、天国民の祈りの目的が唯一であることを教えたかったからなのです。本当の祈りは常に神との親密な交わりの中で捧げられるものです。たとえそれが公の場での祈りであっても、個人の祈りであってもそうなのです。
現代社会に生きる私たちは、多くの情報に囲まれて忙しい毎日を過ごしています。一秒でも惜しいと思いつつ、時間との葛藤の中で、いくつもの事柄を掛け持ちながら生活を送っています、そんな私たちは、祈りにおいても同じことをしてしまうことがあります。様々なところに心が向いていながら、神に祈り始めるのです。しかしイエスは、「扉を閉じて、祈りなさい。」と言うのです。私たちは祈りの時に、神に集中していなければなりません。残念ながら愚かな私たちは祈りに集中するのではなく、ほかのことに思いが移ろいでいくことがあります。祈っている最中に、気が付くと明日の天気のことを考えていたり、テレビ番組のことを考えていたり、この後のスケジュールを気にしていたりするのです。このような祈りは神との親密な祈りと呼ぶことができるでしょうか。天国民の祈りはこのようなものであってはならないのです。
私たちが主が言われるような祈りを捧げ始めると、どんな変化が起こってくるのでしょう。イエスは「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(6:6c)と言います。隠れた所ですべてを見ておられる神が、私たちの祈りを聞くときにもっとも関心を抱いているのは、「私たちがどんな言葉を語るか」ではなく、「私たちの心に何があるか」です。それこそ神が見ておられるかくれたものなのです。それ故に、私たちがもっとも関心を払わなければならないことも、私たちの心にある思いなのです。
祈りは主に喜ばれる良いものです。しかし、すべての祈りが主に喜ばれるものではありません。私たちは神が憎む悪が、罪に満ちた汚れた場所にしか存在しないと考えがちですが、悪魔は巧妙に私たちに働き、本来良いものを主が憎むものとなるようにするのです。もしクリスチャンの捧げる祈りが神に喜ばれない、神との真の交わりのうちにないものになっていくとするならば、どうなってしまうでしょう。だからこそ、私たちは祈りの動機を考えなければならないのです。
もし私たちが主に喜ばれる祈りを捧げるならば、私たちには素晴らしい約束が与えられています。神が私たちに報いてくださるのです。いったいどのように神が祈りに報いてくださるのかということについて、イエスは具体的なことを教えてはいません。しかし、文脈は偽善者が「人前でする行動のゆえにすでに受け取っている報い(人からの賞賛)」と「神が与えてくださる後に与えられる報い」とが対比されています。人からの賞賛を得るために人前で祈る者たちの心は神に向けられていません。彼らは神以外の者に焦点を当てているからです。それゆえに神は彼らの祈りに報いてはくださいません。人からの賞賛だけが彼らの報いなのです。しかし神との交わりを願い、神に祈りを捧げる者は、たとえ多くの人の前で祈ったとしても、その心は神のみに向けられています。誰に聞かせるために祈るのでもなく、ほかの事柄に心奪われるのでもなく、ただ神のみに祈りが捧げられているとき、神はその祈りに豊かに報いてくださるのです。
形式だけの祈りを私たちは捧げていることがあります。習慣的になされているがゆえに心が本当に神に向いていない状態でただ呪文のように決まった言葉を口にしているだけのことがあります。だからこそ私たちは主がここで教えていることを真剣に考えて自分たちの祈りをもう一度しっかりと吟味しなければなりません。本当に私たちは神に向かって祈っているのでしょうか?神にだけ心を向けて、神との深く親しい交わりを持てることを心から喜んで、祈りの時間を持っているでしょうか?今一度私たちは自分の祈りを見直し、ひょっとすると修正すべきなのかもしれません。
[1] 5節で使われている複数形の「あなた」と明らかに区別されています。
[2] D. A. Carson, Jesus’ Sermon on the Mount, 63.