「祈りは信徒がすべてきことである」という教えに反論するクリスチャンはいないでしょう。しかし、私たちの祈りがどれだけ聖書の教えを反映した祈りであるのかと問われるならば、私たちは立ち止まってしっかりと考えなければならないでしょう。クリスチャンになる前から人は祈ることをしてきました。間違った観点から、間違った対象に向かって、間違った方法と思いで祈っていた私たちは、残念ながらクリスチャンになった後もしっかりとこれまでの間違いを正すことなく、聖書的な理解に基づいて祈ることがありません。それゆえに私たちの祈りは、「天の父なる神様」と言って始まり「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と言って終わるという違い以外に、未信者の祈りと変わらない場合が多いのです。

イエスは山上の説教の中で、天国に属する者が捧げるべき祈りについて教えています。ここで教えられていることは、聖書に出てくる祈りに関する教えの全てではありませんが、私たちが「祈り」について考える時に大切な基礎を築き上げる箇所でしょう。ですから私たちがしっかりとこの祈りに関する教えに耳を傾ける必要があるのです。

イエスは次のように教えています。

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:5–8)

この箇所は、パリサイ人や律法学者の間違った行動に対する非難と、天国民がなすべき行動に関する教えの中で語られた言葉です。すでにイエスは「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」(マタイ6:1)という警告の具体的な例として「施し」について話をしました。主はそこで施しの行為をとがめたのではなく、施す者の心の態度を問題としました。自分が人からの評価を得るために施しをするならば、神からの報いを得ないことがそこでは明確に教えられていました。そして、イエスが次に具体的な例としてあげることがこの祈り関する教えです。天国に属する者が祈るときにどのような態度を持って祈るべきなのかがここで教えられているのです。

祈りはユダヤ人にとって非常に大切なものでした。彼らは決まった時間(9時、正午、3時)に祈りを捧げていました[1]。彼らにとって祈りとは神との交わりの場であり、神が彼らの祖先たち(アブラハムや彼の子孫たち)と直接言葉を交わしていたように、祈りを通して持たれる交わりを尊重していたのです。しかし、主の面前にいたユダヤ人たちは正しい祈りを捧げていなかったのです。

イエスは5節で天国民にふさわしくない祈りがどのようなものであるかを教えています。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。」(6:5a)というように、ここで主は「偽善者」、つまり自分の本質とは別の役柄を演じている人のことを指摘しています。パリサイ人や律法学者を指して使われているこの言葉は、彼らの心の状態を知っていた主の厳しい非難の言葉であることを私たちはしっかりと受け止めなければなりません。ではなぜ彼らは「偽善者」と呼ばれるのでしょう。それは彼らの祈りの行為に問題があったからではありません。問題は彼らの心の態度なのです。イエスはここで祈りの行為を禁じていないことを私たちはまず理解しておかなければなりません。公の場で祈りを捧げることが主に喜ばれないことではないのです。問題は何のために祈りを捧げるかということなのです。

イエスは「彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」(6:6a)と言って、主の弟子たちが偽善者のようになってはならない理由を教えています。彼らが祈っていたのは、「人に見られるため」だったのです。ここで主が指摘していることは当時のユダヤ人の風習に関することでした。先にも記しているように、彼らには決められた時間に祈りを捧げるという習慣がありました。その時間になると、どこにいてもその場に立ち止まり、祈りを捧げることが決まりとなっていたのです。パリサイ人はこのような時間にわざわざ人の集まるところに出向いて、人に見られるために祈っていたのです。

主は具体的に二つの場所を取り上げています。「会堂」は公の祈りが捧げられる場でした。多くのユダヤ人は、神殿に毎日通うことができませんでしたから、会堂に行きそこでみことばを学び、礼拝を捧げていました。また会堂は礼拝のためだけでなく、様々な政治的、社会的集まりにも用いられていました。問題は会堂で祈りがされることではありませんでした。もし、心の態度が正しいものであれば、様々な集会で公の祈りが捧げられることは決して間違ったことではないのです。同様に通りの「四つ角」[2]で祈ることも、その行為自体が間違ったものではないのです。そこを通りかかったときに祈りの時間になったならば、立ち止まって祈りを捧げるという行為自体には何の問題もありませんでした。しかし、それが何のために行われるのかが問題なのです。

もう一度イエスの言葉に注目してください。「会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」という言葉は、偽善者たちの好みを指摘しています。なぜ彼らはこのような場所で祈るを好んでいたのでしょう?何のために彼らはこうした場所で祈っていたのでしょう?それ目的は「人に見られたくて」であるとイエスは言います。ここに問題があるのです。

いったい彼らは誰に対して祈っていたのでしょう?いったい何のために祈っていたのでしょう?イエスは2節の言葉と同じ言葉を使って、彼らの報いがすでに与えられていることを教えています。人からの賞賛を受けるために人前で演じられる祈りは、神からの報いを受けることのできるものではなく、人からの賞賛だけで終わってしまうものです。祈りとはいったい誰に向けて語られるものなのでしょう?それがイエスの問題としていることです。人に向けてなされているならば、神はそのような祈りに耳を貸すことはないでしょう。そして、このことは私たちもよく考え吟味しなければならないことなのです。

パリサイ人たちを「偽善者」と言って責めることは簡単なことでしょう。しかし、そうする前に私たちは自分の心をよく吟味しなければなりません。人前で祈る機会は私たちにもあります。礼拝で、学びで、様々な集会で、また祈祷会などで、私たちは公の祈りを捧げる機会が与えられています。そのとき私たちの祈っている言葉は誰に向けられているものなのでしょうか。「すばらしい言葉で、人々に感銘を与える祈りをしなければ、格好が悪い。」と考える人たちがいます。「上手に祈れないから・・・。」と言って公の場で祈ることを拒む人もいます。このような言葉を私たちが用いるとき、私たちは自分の心をよく吟味しなければならないでしょう。もし私たちが単に祈りを聞いている人たちによく思われるために祈っているならば、周りの人の感銘を受けた時点でその祈りはそれ以上の報いを受けることがないことを理解していなければなりません。このような祈りは偽善的であり、決して主に喜ばれる、受け入れられる祈りではないのです。

 

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[1] ダニエルの時代から、このような祈りの時間というものが存在していたのです(参照:ダニエル6章)。

[2] ここで興味深いことは、イエスが用いる「通り」という言葉が2節で使われているものと異なる点です。2節では、狭い道を指す言葉が使われていましたが、ここでは人通りの多い、大通りを指す言葉が使われています。