イエスは山上の説教の冒頭で、天国に属する民の特徴と責任を明らかにしています。天の御国に属するがゆえに「幸いなるかな」と宣言される人々(5:3–12)には、地上における責任があることをイエスは教えています。その責任とは「地の塩」としてこの世を腐敗から守ることでした。この世と同じような生き方をすることによって塩けを失ってしまうのではなく、神を喜ばせる生き方をしっかりとすることによって、世を完全な腐敗から守るように生きることが求められているのです。しかし、天国民の責任は腐敗から守ることだけではありませんでした。イエスはもう一つ非常に重要な責任について弟子たちに教えています。それが14節以降に記されている「世の光として生きる」ということです。

イエスは次のように告げます。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。マタイ5:14–16

責任

「地の塩です」と語ったときと同様に、ここでもイエスは「あなたがた」という言葉を強調しています。イエスの弟子たち、つまり天国民は世の光なのです。確かにこのメッセージが語られたとき多くの人々がイエスの周りにいました。その中には「みことばの教師」として人々から尊敬されていたパリサイ人や律法学者も含まれていました。しかし、イエスはそれらの人々が世の光なのではなく、「あなたたちこそが世の光だ」と彼の弟子たちに語るのです。

これは非常に意味深い発言です。なぜならばイスラエル人たち(特にパリサイ人や律法学者たち)は、自分たちこそが「世の光である」と自負していたからです。パウロはこのことについて次のように語っています。

また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。        ローマ2:19-22

ユダヤ人に対する痛烈な批判として書かれているこの部分で、パウロは明らかにイスラエルの民が「闇の中にいる者の光」として人を導く存在であると考えていたことを教えています。ところが、ここでイエスは集まっていたすべての人々が世の光なのではなく、彼の周りにいた弟子たちこそが、真の天国民であるがゆえに世の光であることを教えるのです。

イエスは「光」という言葉を用いることによって、この世が暗闇の中にあることを示唆しています。「地の塩」という表現がこの世の腐敗を現していたように、「世界の光」は闇の中に置かれている世の姿を示しているのです。この表現はキリストご自身に対して使われた言葉です。ヨハネの福音書には次のような主の言葉が記されています。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(ヨハネ9:5)

イエスが光であることはヨハネの福音書の一つのテーマでもあります。ヨハネはイエスが光であることを次のように説明しています。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4-5)
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。(ヨハネ3:18-19)

まことの光であるイエス・キリストを信じた者は、その光を反映させて世の光として生きる者へと変えられます。イエスは「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と命じました。そして主を信じることによって光の子どもとされた天国民は、世の光として人々に真理を示す働きが与えられているのです。

バプテスマのヨハネに関する記事は私たちにこの天国民が持つ光となるという責任がどのようなものなのかを教えています。彼について次のような言葉が記されています。

神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。ヨハネ1:6-8

ヨハネは光ではありませんでした。しかし、イエスは彼のことを「燃えて輝くともしび」であったと語ります(ヨハネ5:35)。イエスこそが唯一の光であり、バプテスマのヨハネはその光を反映させる灯火だったのです。ではその灯火であったヨハネは何をしたのでしょう。彼の役目はあかしをすることでした。人々に来たるべきキリストを宣べ伝えることだったのです。ヨハネ1:6-8はキリストとバプテスマのヨハネとの間にある違いをはっきりと示しています。ヨハネは神ではなく神から遣わされたものであり、彼は光ではなく光をあかしするものであり、人々は彼を信じるのではなく彼を通してキリストを信じる必要があったのです。

天国民であったヨハネの働きは、同時に今天国民にされている私たちの働きでもあります。私たちは天国民としてこの地上において光について明確なあかしをする者でなければならないのです。このような責任を持つ私たちはどのような特徴があるのでしょう。次のそのことを考えてみましょう。

特徴

イエスはここで2つの例を挙げて、光である天国民がどのような者でなければならないかを教えています。一つ目の例は「山の上にある町」です。イスラエルには山の上に立てられた町が多くありました。それらの町は昼も夜もその場所を隠すことなく、そこに町があることを人々に知らしめていました。当時建てられていた白い壁の家々は太陽の光を反射して、そこに町があることを遠くから見る人々にも顕わにしていました。夜になると町は家に灯る光のゆえに、一面の闇の中でその所在を明らかにしていたのです。

天国民はそのような山の上にある町と同じ存在だと主は教えています。この町は隠すことができないのです。どこから見てもその所在は明らかであり、町としての特徴を示しているというのです。そのあかりは漆黒の闇を明るくするものであり、人々はそれを手に取るように見ることができると言うのです。

2番目の例も同じことがポイントとされています。現代社会のようにスイッチ一つで瞬間的に光を手に入れることができなかった社会では、ろうそくの光は大切なものでした。確かにろうそくのわずかな明かりは、大きな光をもたらすものではないかもしれません。しかし、それがない状態が暗黒であったとするならば、どうしてその大切な光を升に入れて隠してしまうことがあるでしょう。

この例はイエスに従う者たちの持つ「光をもたらす」という責任を物語っています。光をもたらすことは天国民のオプションではないのです。当然習慣的になされるべき責任であると主は語るのです。クリスチャンであることをできるだけ知られないように生活しようとする人々が教会の歴史の中に存在してきました。これらの人々は迫害されることを恐れ、自らの保身を思い、まるで枡の下に置かれ光を発するものとしての役割を果たすことのない灯火として存在しているのです。しかし、光は周りを照らすために存在します。神は福音を隠された、特別な人にしか知られることのない特別な宝として与えたのではありません。それゆえに光である御子を知り、光を反映させる灯火となった私たちは、この世にあってその光を覆うのではなく、燦然と輝かせなければならないのです。

命令

新改訳聖書ではあまり良く表現されていませんが、16節でイエスが命じていることは「父をあがめるようにしなさい」ではなく、「人々の前で輝かせなさい」ということです。この命令部分で使われている動詞は、15節の「照らす」という言葉と同じものです。つまりイエスが命じていることは、「あかりを燭台において家の中を照らすのと同じように、天国民は世にある者たちを照らさなければならない。」ということなのです。

この命令は「あなたが光を輝かせなさい。」というものではありません。直訳するならば「光に輝かさせなさい。」というのが命令なのです[1]。文脈をもう一度考えてみましょう。イエスは前節でこの光を輝かすか隠すかという話をしていました。光はもうすでに存在しているのです。それを隠すような愚かな選択をしてはならないというのがイエスの訴えたことでした。それゆえに、天国民はもうすでに内にある光がすべての人の前で輝くように、主がそれを行うことを許可する必要があるのです。「どうぞ私を通してあなたの光が現されるように私を用いてください。」という思いがなければならないのです。

ではいったい何の目的で天国民は光を輝かせるのでしょう。このことが16節の後半に書かれています。目的の一つ目は「人々があなたがたの良い行いを見る」ということです。ここで使われている「良い」という言葉は、美しさを現すときに用いられる言葉で、その道徳的正しさ、人の目に見て良いとされる魅力的な行いを指しています。キリストがすでに内に働いてくださっているがゆえに、人々は私たちの良い行いを見るときに、キリストの業のすばらしさを認めるのです。それを受け入れるかどうかは人々の責任であり選択です。しかし天国民はこの輝きを人々がしっかりと見ることができるように生きなければならないのです。

良い行いを人々に見せることは、自分たちがほめたたえられることを願うからではありません。パリサイ人たちは良い行いを人に見せることに熱心でした。しかし彼らのような行いをイエスはここで求めていたわけではないのです。事実イエスは次のように語ります。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。マタイ6:1

自らの賞賛のために善行をすることをイエスは教えていません。自己義認の中で、人々からの賞賛を得るために様々な行いを積み上げていたパリサイ人たちをイエスは厳しく非難し続けたのです。私たちがしっかりと理解し、決して忘れてはならないことは、光をもたらすという特権を与えられた者がすばらしいのではなく、光がすばらしいということです。光を運ぶ者が明かりをもたらすのではなく、光が明かりをこの世にもたらすということです。私たちの内にある光が輝き、私たちがそれによって魅力的な良い行いをするとき、それは私たちに賞賛をもたらすのではなく、神への礼拝をもたらすのです。私たちは神がほめたたえられるために良い行いをし、神のすばらしさが明らかになるために与えられている光を輝かせようと努めるのです。

パウロはクリスチャンたちに「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)と命じました。また「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(ピリピ2:14)と命じた理由として、「いのちのことばをしっかり握って、彼ら(邪悪な世代の人々)の間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:16)と言います。光の子どもとなった私たちは、闇に包まれたこの世にあって神のすばらしさを示す明かりの役割を担っているのです。それゆえに私たちは光の子どもらしく、生きる必要があります。世の光として輝く必要があるのです。

私たちは普段の生活の中でどれだけこのことを意識して生きているでしょう。人との接し方一つひとつが、神のすばらしさを人々がほめたたえるようになるためになされているのでしょうか。光を輝かすために私たちは生きているのでしょうか。天国民の責任は「地の塩」としてこの世を腐敗から守る良い影響をもたらすことだけでなく、「世の光」として神のすばらしさを人々の前に明確に現すことでもあるのです。それゆえに与えられている光に覆いをかぶせてしまうことがないように、私たちは天国民としての役割を十分に果たして生きることを常に考え、実践しなければなりません。それをイエスはここで弟子たちに教えているのです。

このような生き方をしていく時に、そこに困難が伴うのは当然のことでしょう。ヨハネは「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」(ヨハネ3:19–20)と記しています。天国に属する者として、その特徴を豊かに現しながら生きるならば、光を憎む人々がそれを疎むのは当然のことでしょう。だからパウロは「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)と告げ、イエスは天国民の特徴として、「義のために迫害される」ということを挙げているのです(マタイ5:10)。

私たちの主は次のように警告します。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:34–39)

確かに「平和の君」であるイエスは、主を信じる者たちに究極的な平安をもたらします。しかし福音を信じる者たちが直面していることは、この世との様々な衝突や対立であることを私たちは忘れてはいけません。キリストを主と信じ仰ぐ者として、私たちはどのような状況にあってもキリストを世に示す生涯を生きて行かなければなりません。ほかの何よりも主を愛するがゆえに、天国民は喜びと感謝の内にこの方に従順に生きて行くことを何よりも願う者なのです。

 

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[1] ここで使われている命令形の動詞は、3人称単数の動詞です。つまり誰が輝かせるのかといえば、光がそれをするのだというのです。