山上の説教の中でイエスは誰が天の御国に属する「天国民」であるのか、またどうしたら「天国民」になることができるのかを教えていきます。同時にこのメッセージの中で、イエスは「天国民」がどんな特徴を持ち、どんな責任が与えられているのかを明らかにしていきます。確かにこのメッセージはユダヤ人に約束されている「天の御国」の話をしていますが、私たちクリスチャンもこの同じ御国に属する民として(ピリピ3:20)このメッセージの中に記されている特徴を持ち、責任を担う者です。ではいったいどのような責任が天国民に与えられているのでしょう?イエスはマタイ5:13–16で具体的に二つの責任を挙げています。まずイエスは次のように告げます。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

責任 

イエスの言葉を見るときに、最初に注目しなければならないのは「あなたがたは」という言葉です。イエスはここで天国民としての生き方をする彼の弟子たちに対して話をしています。原文において「あなたがたは」は非常に強調されている言葉で、あえてこの強調を加えて訳すならば、「あなたがた、ただあなたがたこそが地の塩です。」となります[1]。キリストのために生きる人、義の生活を実践するがゆえに迫害を受ける弟子たちの事をここでイエスは語っているのです。

イエスの弟子たちにはどのような責任が与えられているのでしょう。イエスは彼らが「地の塩」であると言って、比喩的表現を用いて天国民の姿を宣告しています。これは希望的観測でも、約束でもありません。実際にどのような人物であるのかの宣言なのです。事実ここでは現在形が用いられています。「天国民であるあなたは今、継続的に地の塩である。」と主は宣言しているのです。

では「地の塩」とは一体どのようなものなのでしょう。塩という言葉が何を指しているのかに関して、いくつかの解釈があります。ある人は塩の白さを見て「天国民とはきよい人物である」といった解釈をします。8節にあるように、心のきよい者である天国民はこの世にあって人々がきよくなるために用いられる存在であるのだと言った解釈がここでなされます。しかし、このような理解はイエスが教えようとしていたこととは少し的がはずれています。なぜならばイエスはここで「塩け」の話をしているのであって、塩の色の話をしているのではないからです。

他の人は味を強調して天国民はこの世に味を付けるといった考えをします。塩が食事に味を付け、食べる喜びを増すように、天国民は味気のないこの世の生涯に興奮をもたらすというのです。しかしこの理解もイエスが教えようとしていた事とは違います。事実、天国民が義の生涯を送るとき、この世はそれを見て「私も味わいたい」と思うことは無いのです。多くの未信者が敬虔なクリスチャンを見て感じることは、「私はあのような窮屈な人生を送りたくない」といったものです。確かに天国民が主の前に正しい生涯を送るとき、それはすばらしい香りとなって主の前に捧げられることが記されています。しかし未信者にとっても同じような理解をされるかと言えばそうでないことはパウロが語っている通りなのです。パウロはこのように記しています。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。Ⅱコリント2:15-16

ほかにもある人は塩が傷に塗られると痛みを増すことから、この世にあって天国民は未信者の罪の傷を理解させる責任があるといった解釈をします。確かに神の言葉に忠実に歩むとき人は罪を指摘し、責め、戒める働きをします。また塩は人に渇きをもたらすことから、天国民は未信者に神への渇きを起こさせるといった解釈をする人もいます。これらの解釈はある部分で真理を語っているのですが、これらの事柄がイエスが塩という言葉を使った目的であると考えることは困難でしょう[2]。

イエスがこの言葉を用いた理由を考えるに当たって、私たちは当時の歴史的背景を考慮しなければなりません。現代に生きている私たちにとって塩は味付けをする事がその主たる目的のように感じますが、新約時代の人々にとって塩には味を付ける以上に重要な役割がありました。それは保存または防腐ということです。悪に満ちたこの世にあって天国民は人々が完全な腐敗へと陥ることがないために地上の防腐剤として用いられることをイエスは語っているのです。

確かにアダムが罪を犯して以来、人類は腐敗の道をたどり続けています。しかし神はその中にあってご自身を信じ救われている天国民をこの地上に置かれ、その腐敗の進行度を緩やかなものとしているのです。そしていつの日か空中再臨によって天国民がこの地上から取り除かれるとき、腐敗は一気に加速していくのです[3]。しかしそれまでの間、正しい生涯を私たちがこの地上で送るとき、私たちは周りに大きな影響をもたらします。人々は天国民の存在ゆえに悪の限りを尽くすことをせず、罵りや汚れた言葉を語ることをやめ、つぶやき不満を述べている自分の姿を悔いるようになるのです。

私たちは救われたがゆえに「地の塩」です。それゆえに塩としての役割を果たさなければなりません。もし塩である私たちが塩としての力を十分に発揮しなければどうなるのでしょう。そのことをイエスは続けて教えています。

警告

イエスは弟子たちが「地の塩になれる」とは言わずに「地の塩である」と宣言しています。それゆえに、ここで語られている「塩けをなくす」ことは、救いを失うなどの意味で捉えるべきではありません。問題は、塩として生きるはずの私たちが塩としての生き方をしないことなのです。

科学的に考えるならば純粋な塩 (塩化ナトリウム) は、その塩けを失うことがありません。しかしパレスチナにおいてこの当時用いられていた塩は純粋なものではなく、死海で取れた不純物の混じったものでした。当時の人々は塩分がその他のミネラルに流出して、塩けの無くなってしまった塩を実際に目にすることがあったのです。イエスがここで使う言葉は興味深いものです。「塩けをなくす」と訳される部分は直訳すると「愚かになる」となります[4]。本来持っている塩けを失い、役に立たないものになるというところからこのような意味で用いられているのです。イエスの弟子として、天国民の特長を生かして生きる地の塩である人々が、この世の様々な事柄に混じってしまうことによってその塩けを失い、愚かになる事が警告されているのです。

このような形で本来あるべき責任を全うすることができなくなった者は、使い道が全くありません。一度流出してしまった塩けを再び取り戻すことはできないのです。塩けを失った塩は自然に塵となるのですが、それは決して肥沃な土になることはありませんでした。それゆえに、このような塩は全く有益さにかけたものなのですが、これらは単に無益なものであるだけではありませんでした。もしこの塩が良い土地に捨てられるならば、その地は不毛の地になってしまうのです。ですから、このような塩は道に投げ捨てられました。そこで人々に踏みつけられ砕かれ、全く役に立たないものとしてとどまるのです。

イエスはここで天国民に対して警告を与えています。塩としてあるべき働きをなし続けなさいという警告です。この世との様々な妥協によって自らの塩けを失ってしまい、役に立たない者となることがないように、塩としてしっかり生きていきなさいと言うのです。天国民はこの世を腐敗から守るのがその責任です。その塩である私たちが腐敗してしまってはいけないとイエスは語るのです。

 

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[1] 14節でも同じ強調がされています。

[2] ある人たちは「地の塩」という言葉にはこれらすべての解釈が含まれていると主張します。しかしこの考え方は受け入れることができません。聖書解釈の原則は一つの言葉には一つの意味を持って用いられているというものであり、特定の文脈上の理由がない限り、一つの表現に複数の意味を見いだすことはできないのです。

[3] Ⅱテサロニケ2:6以降の部分でパウロは聖霊がこのような働きをしていることを語っています。

[4] ローマ1:22では「愚かになる」という意味でこの言葉が用いられています。