「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」(マタイ5:11)

日本でクリスチャンに対する迫害に関するニュースを目にすることはそれほど多くありません。しかし世界に目を向ければ、今も多くの人々が「キリストだけを信じる信仰」のゆえに迫害を経験しています。バングラデシュでは時に日曜の礼拝中に教会に向けて銃弾が撃ち込まれることがあります。インドでは家が焼かれたり、一家が信仰のゆえに襲われることがあります。中国では投獄され、財産を奪われることが頻繁にあります。ロシアでは宣教師が入国を拒否され、牧師たちが監視されることが今も起こっています。イスラム教圏ではキリスト教徒となりイスラム教を捨てることによって暴行を受けたり、殺害されたりすることが今も繰り返されています。彼らはキリストだけを主とする信仰のゆえに、自分たちの生命を失う危険に今日もさらされているのです。私たちはそんな話を聞くことがあまりないので、どの国でもクリスチャンになることはそれほど大きな問題を伴うものではないという感覚を持っているかもしれませんが、今日も世界の至る所でこのような迫害が実際に起こっています。
こうした迫害がニュースになることは非常に希なのですが、CNNがメリアン・イェイヤ・イブラヒムさんという一人のスーダン人の女性に対する迫害を5月15日に取り上げました(日本でもこのニュースが取り上げられました)。彼女は5月12日にスーダン共和国の法廷において姦通罪による100回の鞭打ちと背教罪による死刑を宣告されました。なぜ彼女のことをCNNが取り上げたのかは分かりません。ひょっとすると彼女がまだ2歳にもなっていない子どもと一緒に投獄されているからかもしれませんし、ひょっとすると彼女が妊娠8ヶ月であるからかもしれません。ひょっとすると彼女の夫がアメリカ国籍を持っている身体障害者で、彼女の助けなしでは何もできないような状況にあったからかもしれません。または人道的に彼女に対する審判があまりにも理不尽であると考えたからかもしれません。
彼女はイスラム教徒の男性とキリスト教系民族の女性との間に生まれましたが、父親は彼女と彼女の兄弟が幼い頃に家族を捨て、母親の手によってクリスチャンとして育てられました。彼女は成長し、キリストに対する信仰を告白し、クリスチャンの男性と結婚をして子どもをもうけたのです。しかし、イスラム教の戒律においては、イスラム教徒の男性の家に生まれた者はイスラム教徒であり、彼女はイスラムの基準からすれば背教の罪を犯したことになります。また彼女のクリスチャンとの結婚は結婚として認められず、二人の間に子どもがいるがゆえに彼女は姦通の罪に定められるのです。
どのような事情があったのかは分かりませんが、イスラム教に「改宗」した彼女の兄弟が、彼女を告発したそうです。5月12日の判決後、法廷は彼女に三日間の猶予を与え、彼女がクリスチャンであることを否定し、その信仰を放棄する機会を与えました。もし彼女が「改宗」し、イスラム教徒として生きる選択をするならば、判決を取り下げる配慮をしたのです。
5月15日に彼女が再度法廷に立った時に、イスラム指導者は「イスラム教やイスラム教徒の間で、これほど危険な犯罪はあるでしょうか!」と告げたそうです。そんな中で、彼女は次のように法廷で宣言したと報告されています。
「私はクリスチャンです。そして私はクリスチャンであり続けます。」

彼女がどのような信仰を持っているのかは分かりません。どんな教会に行っていたのかも知らされてはいません。しかし、彼女はキリストを捨てて自分の命を守るよりも、自分の命を捨てても信仰を守ることを選択するという信仰を持っているのは、はっきりと分かります。このような信仰を持つことをこの世は「狂信的」というかもしれません。コーランの教えにすら「心に信仰を堅持し、安心大悟している者で強迫された者の場合」は一時的に信仰を否定しても良いという記述があります(アン・ナフル16:106)。一度の否定で命が救われるならば、否定しても良いのではないかと考えるのは当然かもしれません。夫のことを思えば、子どもたちのことを思えば、このような否定をしたとしても、神は赦してくれるだろうと考えるかもしれません。
もし使徒たちがこのように考えてユダヤ教の議会の言葉に従っていたら、今のキリスト教会は存在しなかったでしょう。もし初代教会の人々がこのように考えて激しいローマ帝国による迫害の中で自分たちの信仰を否定していたら、今のキリスト教会は存在しなかったでしょう。もし宗教改革者の一人であるルターがこのように考えてカトリック教会から回心を迫られた時に自分の信仰を否定していたら、今のキリスト教会は存在しなかったでしょう。
殉教を賞賛する必要はありません。「キリストのために死ぬこと」それ自体が素晴らしい訳ではないのです。私たちが考えなければならないことは、「キリストのために死ねるか」ということ以上に「キリストのみのために生きることができるか」ということです。
イエスは次のように教えています。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、 わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37–39)

クリスチャンになった時から、人の生涯はキリストのために生きる生涯に変わります。自分の欲望・願望のために生きる生涯から、キリストの栄光を現すため・キリストを讃えるために生きる生涯に変わるのです。他の何よりも、自分の両親よりも、自分の伴侶よりも、自分の子どもたちよりも主を愛することを願うようになると主は教えています。両親を敬うことは神を愛するがゆえに喜んでしようと願うこととなり、伴侶を愛することはそれがキリストと教会の関係のすばらしさを現すものであることを知っているがゆえに何よりもしたいと願うこととなり、子どもを養い育てることは神のすばらしさを子どもたちに伝える素晴らしい働きであるがゆえに率先してしようとすることになるのです。この世におけるありとあらゆる事柄は、神のすばらしさを現す機会であり、キリストを讃え、主からの恵みを味わう機会となります。だからこそパウロは「私にとって生きることはキリスト」であると告げるのです。
このような信仰を持つ者は、パウロと同じように「死ぬことも益である」と告げます。なぜなら肉体的な死は栄光の主にお目にかかる素晴らしい日であるのを知っているからです。何よりも求めていた神との完全な関係を持つことができるようになる日であるのを知っているからです。死ぬことが素晴らしいのではありません。殉教自体が賞賛されるべきでもありません。迫害を受けることが誇りとなるわけでもありません。ただキリストのためだけに生きようとする信仰が殉教を厭わず、迫害を喜ぶ生涯を生み出すのです。
前回の投稿には「あなたはキリストのために死ねますか?」というタイトルをつけましたが、本来私たちがしなければいけない質問は「死ねるか?」ではなく「あなたはキリストのためだけに生きていますか?」というものでしょう。もし本当にキリストのためだけに生きているならば、先の質問をする必要もなくなるはずです。なぜならば、私たちは何が主を讃え、主の栄光を現し、主を喜ばせるかを知っているがゆえに、喜んであらゆるものを犠牲にする生涯を送るようになるからです。
私たちは主のために生きているでしょうか?それとも他のもののために生きているでしょうか?パウロの語った「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21) という言葉が、「あなたはどうですか?」というチャレンジに聞こえてしょうがありません。パウロはこのように生きてその生涯を全うしました。そのパウロの模範に倣うように求められている私たちは、今、どのように生きているのでしょう?