アメリカのテレビ局 NBC News が5月13日に一つの記事を掲載しました。この記事は現在頻繁にニュースで取り上げられている200人以上の女生徒を拉致したイスラム過激派グループ「ボコ・ハラム」 によって瀕死の重傷を負ったハビラ・アダムという男性に関するものでした。2012年11月、彼の村を襲撃したボコ・ハラムのメンバーは、イスラム教に改宗することを拒んだアダム氏を彼の妻と当時まだ5歳だった息子の目の前で撃ち、激しく出血していた彼を数回踏みつけて彼の家を後にしていったのです。

当時を振り返って、アダム氏は次のようなコメントを残しています。

彼らは私にイスラムに改宗するかと尋ねました。私が拒むと彼らはクリスチャンとして死ぬ覚悟ができているかと詰問しました。妻は泣いていましたが、私はキリストを拒むことができませんでした。私には分かりませんが、なぜだか私の内には力がみなぎり、恐れはありませんでした。

再び彼らの問いに答える前に銃声が鳴り響きました。彼の首筋は銃撃で大きく裂け、大量の血を流しながら妻と子どもの前でアダム氏は地面に倒れました。彼は薄れる意識の中で、声を振り絞って妻に語りかけた様子を次のように語っています。

妻はたくさんの涙を流しながら泣いていました。私も彼女も私が助かるとは思っていませんでした。それで私は彼女にこの世で生きるとはキリストのために生きることだと告げました。そして彼女に、子どもと彼女自身の身の安全を頼みました。

夫を何とか助けようとした妻、ビビアンさんは村の住民の助けを借りようと外へ出たのですが、助けの代わりに見つけたのは同じように殺されていた12人の住人だったそうです。翌朝、何とかして病院まで夫を運びアダム氏は奇跡的に一命を取り留めたのです。

日本ではこのような迫害を経験することはありませんが、世界では今も様々なところで命をかけて信仰を保っているクリスチャンがたくさんいます。アフリカの各地や中東、また東南アジア、インド、中国などでも実際に財産を奪われたり投獄されたりするだけでなく、命さえも脅かされている信徒たちがたくさんいます。彼らはアダム氏と同じように、キリストを信じることで自分の命という代償が生じたとしても、信仰をもって生涯を全うすることを選択しているのです。

イエスはルカ14:26–35で他の何よりもキリストを愛さなければならないこと、そしてその代償がどのようなものかをしっかりと理解した上でキリストに従っていく必要があることを教えています。マタイ5:10–12では、天の御国に属する者が迫害を受けることが告げられています。ヨハネ15:18–20では、キリストを憎んだ世はキリストに従う者を憎み、キリストを迫害した世はキリストに従う者をも迫害することが記されています。パウロはテモテに対してはっきりと宣言します。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)。

もし今日本においてこのような迫害が起こったならば、果たしてどれくらいの「クリスチャン」がパウロと同じように「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21) と言うことができるでしょう?この世が与えることができるあらゆるものよりも、死が奪い取ることができるあらゆるものよりも、キリストがすばらしいことを知っている(ピリピ3:8)「恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」(ヘブル10:39) がどれくらいいるでしょう?

自分の利益のためにキリストを信じる者は、困難の中にあって忍耐を保つことができません。「天国に行きたい」「地獄に行きたくない」「愛されたい」「罪悪感から解放されたい」といった思いはキリストを信じるきっかけになるかもしれませんが、キリストを信じる理由ではありません。キリスト教の歴史に見る偉大な信仰者たちは、天国に行くために迫害を受けたのでも、愛されるために殉教したのでもないのです。彼らは神を心から信頼し、自分の命を守ることよりも自分の命を通して神が崇められることを願って、どのような迫害の中にあっても神を賛美し、主を讃え、キリストに従うことを止めなかったのです。

「クリスチャン寿命3年」と揶揄される日本のキリスト教会にあって、迫害に耐えうる信仰を持つ者がどれくらいいるでしょう?見た目は信仰者のように見えて、実は「自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま (う)」(マタイ13:21) 岩地に落ちた種のような者ではなく、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:10) と言われるような真の信仰者が日本の教会に満ちることを願ってやみません。