神の召しにふさわしい (エペソ4:1) 光の子どもとして (エペソ5:8)、御霊に満たされた生涯を送るに当たって (エペソ5:18)、パウロは父親に対して具体的に三つの責任を明記しました。これまでに私たちは「子どもをおこらせてはいけない」と「主の教育する」という二つの責任を見てきましたが、今回は三つ目の責任である「子どもを訓戒する」ということを考えていきましょう。

パウロがエペソ 6:4 で使う「訓戒」(ヌーセシア)という名詞は、「ヌーセテオー」という動詞から派生した言葉です。この単語は「ヌース」(知力、理解力、心、思い)と「ティセミ」(置く、すえる)という二つの語から形成されていて、根元的な意味として「思いに置く」または「心に据える」といった意味を持つ言葉です。新約聖書ではこの単語をこの箇所と同じように「訓戒」または「戒め」と訳すこともあれば (使徒の働き 20:31; ローマ 15:14; コロサイ 1:28; 3:16; 1テサロニケ 5:12, 14; 2テサロニケ 3:15; テトス 3:10)、「諭す」と訳すこともあります ( 1コリント 4:14)。つまりこの言葉には、戒め、警告を与えることと、愛情を持って諭すことの両方が含まれているのです。パウロはここで「教育」と「訓戒」 という言葉を持って、二つの対になる事柄を述べているのではなく、非常に似たことを教えているのです。
この言葉の訳され方からも分かるように、この単語には言葉によって間違いを正すことが示唆されています。そして、ここには三つの要素が含まれています。それらは「責め」「気遣い」「変化」です。「訓戒」が実践されるところでは、罪が責められ、愛と心からの 配慮を持って、神が求めている者になるため必要な事柄を実践していくことを助けることが行われるのです。
責め
親の責任は子どもが罪を犯すことをしっかりと理解させることにあります。子どもが過ちを犯したときに、親は罪を明確にしてあげなければなりません。なぜその行為が間違っていることなのかをみことばを通して明確に教える必要があるのです。子どもの罪を見過ごし、それらが正しく解決されることを避け、それを怠る親は、神が親に与えている「戒める」という責任を果たしていないのです。 懲らしめを与え、子どもたちを指導するとき、親はこの意味での「訓戒」を子どもたちにします。単にむちを与えるだけでは十分ではないのです。これまでにも見たように親は子どもの心を導かなければなりません。それゆえ、この「責め」も行われた行為を責めるだけではなく、子どもたちがなぜ特定の行為をすることによって罪を犯したのか、その心の状態を責めるものでなければならないのです。
たとえば子どもがおもちゃの奪い合いをする時、多くの親は後からおもちゃを取ろうとした子どもに対して「○○ちゃんが先に使っていたんだから我慢しなさい」と言って子どもを叱ります。しかし、この行為は子どもに対して「自分のものにしたければ先に手に入れれば良いのだ」ということを教えることになる場合があります。問題は「誰が先におもちゃを使っているのか」ではなく、「どうして他者のものを奪ってまで自分の喜びを満たしたいのか」という点にあるのです。また先に遊んでいた子どもに対して何の働きかけもしないとするならば、親は同じ間違ったメッセージを子どもに発しています。「自分が先に遊んでいたのだから、おもちゃを分かち合わなくても良い」というのは、子どもの罪深い独占欲を助長するだけなのです。
心にある問題を解決するために、私たちは子どもの行動とそして心の動機に正しく責めを与えなければなりません。私たちは単なる行動修正をしたいのではなく、子どもの心が罪から遠ざかるように働きかけなければならないのです。
気遣い
親が子どもの罪を責める理由は、子どもが憎いからではありません。子どもに恥をかかせたいからでもありません。子どもを愛するがゆえに、正しく、神に喜ばれる者になって欲しいから責めるのです。パウロは1コリント 4:14 で、「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです」と言います。 この「さとす」という言葉が、「ヌーセテオー」です。パウロはコリントの教会の信徒たちを自分の霊的な子どもと考えていました。それゆえに、戒めの言葉を与え、彼らの罪を責めたとき、それは彼らをはずかしめるためではなく、彼らを愛するがゆえであったのだと言うのです。このような諭しを親は子どもに与える必要があります。また訓戒がこのような愛に溢れたものであるがゆえに、感情に支配された怒りによる叱責は、聖書的訓戒ではないと言うことを親は理解しないといけません。
どのように子どもを指導するのかは、一人ひとりの子どもによって違いがあります。同じ家庭に育った兄弟姉妹でも、どういうアプローチを取ることが最善であるかは違いがあります。ある子どもは何度もむち打たれなければ分からないかもしれませんし、別の子どもは一度のむちで十分かもしれません。ある子どもは厳しく一度話をすることで理解するかもしれませんが、別の子どもは忍耐をもって繰り返し教えなければならないかもしれません。親は自分の子どもの特徴をよく掴み、一人ひとりに公平に、ふさわしい訓戒を与えなければならないのです。また、親が間違った応答をして子どもに罪を犯す時に (感情的に怒ったり、正しくない裁きをして子どもをおこらせるような行為をする時に) 、子どもの心を気遣う親は必ず子どもに赦しを求めます。自分が完全でないことを知っている親は、自らの罪の悔い改めを通して、子どもに罪の問題の解決方法を教えようとするのです。
変化
諭し、訓戒する目的は、単に罪に気づかせることではなく、子どもたちがそこから神に喜ばれる者へと変わっていくことです。自分の罪深さを悟り、キリストが与えてくれる罪の赦しを心から求め、神との和解を受け入れ、主に従う者となっていくために、親は子どもを諭し、戒めなければならないのです。
親は子どもの心を養っていかなければなりません。子どもの罪をしっかりと理解し、 子どもの弱さを鍛錬によって克服していかなければならないのです。正しい生き方がどのようなものなのかを、自らの模範を通して示し、励ましを与え、主に従うことの喜びを伝えていかなければいけないのです。罪を懲らしめるだけでは、子どもが変わることはないでしょう。外面的従順を装うことができても、責められることしか経験することのない子どもは、心からの尊敬を持って親に従うことをしないでしょう。励ましが与えられ、なぜ責められないといけないのかを理解し、自分の罪を克服するために自分と一緒に葛藤してくれる親を子どもたちは必要としているのです。
もし親が子どもの過ちだけに目を留め、それを責めることしかしなければ、子どもは正しいことをする喜びを失ってしまいます。そこには強制しかなく、子どもの心には反抗心が育まれていきます。ですから親は子どもの間違いを指摘するのと同じだけ子どもの正しい行為に目を留め、子どもが主に喜ばれる選択をしたことを一緒に喜ぶように努めなければならないのです。牛乳をこぼす時だけ子どもの行為に目を留めるのではなく、こぼさないで飲むことができたことを喜ぶ必要があります。おもちゃを奪う時だけ目を留めるのではなく、おもちゃを分かち合う時に主に喜ばれることをした子どもを喜ぶことをする必要があるのです。
罪が責められるだけでは主に喜ばれたいと願う思いはなかなか生まれません。神に喜ばれることを心からの喜びとする子どもに育てるためには、主に喜ばれることがどれほどすばらしいことなのかを教える必要があるのです。そして、それは何よりも親が主に喜ばれたいと心から願って生きている姿を通して教えられるものであることを全ての親は忘れてはならないのです。日々キリストに似た者に変わっていこうとしていない親が、子どもにその変化を求めることは偽善です。親は神に喜ばれる生涯を過ごす模範として子どもの前に立ち続けなければならないのです。そして完全ではない親が模範であるがゆえに、子どもと一緒に悔い改めを学び、赦しを体験し、主からの賞賛を喜び、共に主に喜ばれる者へと成長していく必要があるのです。
神から与えられている子どもを育てるための責任をしっかりと理解し、それを正しく実践していくならば、親は神に喜ばれる子育てをすることができるのです。教えと訓戒が正しくなされている家庭には、義の実が生み出されることでしょう。神はクリスチャンの家庭が、祝福の場となることを望んでいます。そのために必要なことを神は私たちに教えてくれているのです。問題は私たちがそれを学び、理解し、実践していくかということです。