神が親に与えている責任は、子どもをおこらせないこと、子どもを教育すること、そして子どもを訓戒することです。私たちはこれまでに、最初の二つを見てきました。親は子どもと接する中で、不必要に子どもに憤りを与えることをしてはいけません。怒りを覚えさせることによって、子どもに罪を犯させてはいけないからです。また親は、子どもの心を教育しなければいけません。時には懲らしめによって、時には指導することによって親は子どもの心が神に向くように教育しなければいけないのです。

この「教育」という言葉には、教えるということと同時に懲らしめるという概念が含まれていました。子どもを懲らしめるということは、現代社会においてあまり尊ばれない考え方です。それゆえにまず、もう少しこの懲らしめるということを考えることにしましょう。そして聖書が親に対して与えるもう一つの責任、子どもを訓戒する、ということを考えていきましょう。


子どもを正しく懲らしめる

パウロがエペソ6:4で使う「教育」という言葉は「懲らしめ」と訳されることがあります。ヘブル人の手紙12章では、神が過ちを犯しているクリスチャンを愛のゆえに懲らしめることを、親が愛をもって子どもを懲らしめることを通して教えられています。子どもに対する「教育」は、子どもの罪を戒め、警告するために、懲らしめを通して与えられるのです。

体刑または体罰ということが話題にあがるとき、現代社会は私たちにそれが悪であるかのように訴えます。ある子育てに関する情報の中で、ハーバード大学名誉教授であり、小児科医のブラゼルトン博士は、次のように記しています。

何かを子どもに理解させるとき、分かるまで親は言葉と行動の両方で教える必要があります。この場合、行動で教えると言うのは、体罰を与えるということではありません。体罰は子どもの尊厳を傷つけるだけでなく、それにより子どもは感情を飲み込み怒りを隠すことを覚えてしまう恐れがあります。また、体罰など与えてしまうと、同じ悪さを繰り返し、そのうちストレスと怒りを行動に表すようになってしまう可能性があります。誰しも子どもの頃におしりをぶたれたことくらいあるものです。だからカッとくるとつい自分も罰をもって対処してしまいがちなのです。たとえば、私の母は私たち兄弟が悪いことをすると、庭から枝を折ってきて私たちを打ったものです。これはいつしか私のトラウマになり、自分の子どもに同じことはするまいと誓ったものです。でもいざ自分が親になり、子どもたちがどうしようもなく「悪い子」のとき、自分もまた暴力を振るおうとしていることに気づき、はっとしたのです。子どもに自己管理を学んで欲しい大切なときに、親が体罰などで自己管理のできない自分を見せると、これは悪い見本となってしまうことになります。自分をコントロールすることをまだ知らない子どもをしつけるときは、親が落ち着いていることが非常に重要なのです。また、しつけの目的は教えることであり罰ではないということを、いつも心に留めておかなければなりません。

パンパース子育て情報、トピック:発育、T・ベリー・ブラゼルトン博士(橋本武夫先生 監修)著、「愛情のこもったしつけ」からの引用 (現在アクセスできません)

また、ある市の子育て情報を見ると、次のような記事を読むことができます。

どなったり、たたいたりすることは子どもの心を傷つけるだけでなく、他の人に暴力をふるってもいいということを身をもって教えているようなものです。親が自分の感情をコントロールできなくなった状態で、手が出てしまうのでは、子どもをよい方向に導くことはできません。体罰を加えられることによって、言うことを聞くようになるのは、恐ろしいから命令に服従しているだけで、自主的に聞き分けているのではありません。また、体罰を繰り返していると、話して納得させるという習慣が身についていないので、たたかれないとやめなくなります。そのうちに少しくらいの体罰では動じなくなり、もっとおさえつけようとして、体罰はどんどんエカレートしやすく、子どもに与える心の傷も深くなり、不信感も増していきます。子どもは、体罰を加えなくても聞き分けることができます。子どもの発達過程に沿ってやる気をうながし、ほめたり、やさしく言って聞かせれば、よくわかるものなのです。根気よく、くり返し教え聞かせることがとても大切なことです。

北海道岩見沢市ホームページ、子育て Q&A 情緒としつけ、「しつけ」より

子どもを懲らしめることを否定する立場は、欧米社会を中心に発展してきました。そして子どもに体罰を与えることは、子どもを傷つけることであり、子どもの成長にマイナスになることでしかないという立場は、私たちの回りにも多く見られるようになってきました。しかし、聖書は私たちにこれらの立場と反対のことを教えます。子どもに懲らしめが必要であると。箴言 13:24 は、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」と教えています。また、「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」(箴言 22:15)や、 「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。」(箴言 23:13-14)と書かれています。

上記の引用を見るときに、私たちは一つのことに気づかなければなりません。それは、専門家たちが「止めなさい」という体罰は聖書が教える懲らしめとは異質のものであるということです。たとえば、ブラゼルトン博士は「子どもに自己管理を学んで欲しい大切な ときに、親が体罰などで自己管理のできない自分を見せると、これは悪い見本となってしまうことになります」と言い、子育て Q&A では「親が自分の感情をコントロールできなくなった状態で、手が出てしまうのでは、子どもをよい方向に導くことはできません」と 言います。もし、親が子どもを自分の怒りの感情にまかせて懲らしめるなら、それは聖書が教える「懲らしめ」ではありません。しかしすべての懲らしめがこのような、自己管理ができず、感情をコントロールせずに行われるものであるとするならば、その考えが間違っているのです。

親が感情にまかせて子どもに怒りをぶつけることは、子どもに怒りを与える行為であり、子どもの成長のためになされる行為ではありません。このような行為は聖書的懲らしめではないのです。これは懲らしめではなく、虐待と呼ばれるべきでしょう。しかし、子どもの成長を望むがゆえに、彼らの罪を戒め、罪を行ったがゆえに受けなければいけない報いがあることを子どもに教えることは、良いことであり、親がなすべき働きなのです。

聖書は親に、子どもを懲らしめなさいと教えます。懲らしめによって子どもは、自らの罪の重さを知り、その報いが必ずあることを理解するのです。懲らしめによって子どもは、罪を見過ごすことが出来ないという神の基準を知るのです。懲らしめを与えることによって親は、子どもに正しい道を歩むことの大切さを教えます。懲らしめを与えることによって親は、子どもに彼らの罪の問題を解決しなければならないことを示すことができるのです。

神の愛を、そしてキリストの贖いを教えるために、懲らしめは必要なことです。ヘブル人への手紙の著者は次のように言います。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 ヘブル 12:11

「神が私たちに与える懲らしめはこのようなものである」とこの著者は言うのです。そして親は、神の子どもとされたクリスチャンに神が懲らしめを与えて平安な義の実を結ばせようとするように、神が行うのと同じ、正しい懲らしめを与えることによって、子どもたちを教育しなければいけないのです。それをするときに、子どもたちは神に喜ばれる義の実を結ぶことを学ぶのです。

正しい懲らしめは常に愛のゆえに行われなければいけません。子どもが間違ったことをするとき、親は子どもを懲らしめる責任があります。それは怒りによって行われる行為では決してなく、子どもが主の前に正しい者として歩んでいくことができるために行われなければならないのです。