子どもを教えるに当たって、親は子どもの心に養うことを心がけていなければなりません。なぜならば「心」こそが私たち人間の外面的な言動を支配する場所であるからです。ソロモンは箴言の中で「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)と告げて、この心の重要性を明確にしています。主は親がこの働きをする際に、しなければならない責任をモーセを通して具体的に提示しています。ここで何よりも重要な点は、子どもの心を養おうと思うならば、親がその心に主の教えを刻まなければならないということです。

神は申命記 6:6-7 で親の責任を明確に定義しています。そこには次のように書かれて います。

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これを あなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、道を 歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

この箇所を見てまず気づくことは、親の心からこの命令が始まるところです。神のみことばに対して、情熱のない親は子どもの心をしっかりと牧していくことはできません。 つまり、親が子どもに教えようとしていることを理解しそれを実践する者であることを主はまず求めているのです。ではどのようなことを教えなければならないのでしょう。文脈を見ていくとそのことがはっきりと分かります。
4節を見ると、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」 と記されています。最初に親は神が誰であるのかを子どもに教えなければいけないのです。他の神々とは違う、唯一真の神がおられること、この方がどのような属性を持ち、何を求めているのかをまず親が正しく理解しなければなりません。親がよく理解していないことを子どもたちに正しく伝達することはできません。それゆえに親は神についてよく知らなければならないのです。
次に5節を見ると「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と記されています。イエスはこれがもっとも大切な命令であると言いました。つまり親は2番目に、神を愛することを子どもに教えなければならないのです。神に関する正しい知識は、神に対する態度を変えるものです。変化の伴わない知識は真の知識ではありません。どれほど神がすばらしい方なのかを理解し、神が求めておられることがどれほど幸いに満ちたことであるのかを知る者は、何にも増して主を愛する者に変わるのです。親はこの神を愛する姿を子どもたちの前で確かに現していなければいけません。そうでなければ子どもたちは親の偽善を見て取ることにしかならないからです。
6節は、5節と密接な関係があります。そこでは「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。」とあります。3番目に親に求められていることは、心から神に従順であることを教えることなのです。ここで語られている「ことば」は、神のみことば(特に律法)を指しています。そして、それはこの律法をしっかりと心からの従順をもって守ることを示唆しているのです。神に対する愛は、主のみことばへの従順を生み出します。それは嫌々ながらにする強制的な従順ではなく、主に喜ばれる生涯を送ることのすばらしさを知るがゆえの従順です。「しょうがないからする」のではなく、「主を喜ばせたいからする」従順です。ですから子どもたちに対して主に従順であるように教える時に、親は子どもたちが主に従う人生がすばらしいものであることを教え諭すことが必要です。そのためには時間をかけて子どもたちと、一つ一つの命令が与えられている理由や、なぜ主に従うべきなのかという根拠をしっかりと話し合う必要があります。喜んで主に従いたいと願う思いを子どもたちの心に育むように努めなければならないのです。
4番目に親は子どもに、親の模範に見習うことを教えなければなりません。 7、8節には、「あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」と記されています。別の言い方をすれば、「子どもたちに、生ける神のみことばが常に親である私たちの口先にあり、生涯のどの時間にも、どのような経験を通してでもそれが見て取れるようにしなさい」と、神は親に命じているのです。真理が私たちの生涯の至る所で君臨していることを子どもたちに見せなければいけません。生きている時間すべて、そこで起こることすべてが学習の時間なのです。親はあらゆる出来事を、神について教える機会にすることを心がけなければいけません。起こること全てがみことばにつながるように、機会を生かしていくべきなのです。 イエス・キリストはこのような方法で弟子たちをに神を伝え、みことばを教えました。親はこのキリストと同じようにあらゆる機会を通して、真理を子どもたちに教えることが求められているのです。8節のことばは、親がみことばを常にその思考の先端に置き、あらゆる場面ですぐに用いることができるようにしなければいけないことを現しています。9節はさらに、「これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」と続きます。つまり、神のみことばがあなたの家をほかの家庭と区別するしるしとなるようにしなさいというのです。これらの言葉は、親がみことばの真理を、家庭の中心、焦点としていなければいけないことを教えているのです。
5番目に、親は子どもに世を警戒することを教えなければなりません。10節から12節には次のように記されています。
あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくてすばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。

親は、偶像や、あらゆる欲望、誘惑に満ちたこの世で過ごさなければならない子どもたちに、神を忘れることがないように教えなければならないのです。彼らが世に出ていく準備を親はしていく必要があるのです。ヤコブは「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)と警告します。子どもたちが成長していく中で、世は彼らが「世の友」となるようにあらゆる角度から子どもたちに影響を与えようとします。その中にあって、親は子どもが決して主を忘れることがないように、彼らが行くべき道から離れることがないように、いやむしろ「主の求める道を歩むことほどすばらしいものはない」と思い続けることができるように、子どもたちを教え導かなければならないのです。
もちろん、ここに記したことだけが全てではありませんが、これらの事柄が「教育」という言葉に含まれていることです。子どもの心が神の方へ向くために、神の真理を求め、自らの罪に気づき、神の和解を受け入れ、主に似た者へと成長していくために必要な環境で子どもを教育することができるならば、パウロがエペソ 6:4 で親に求めている教育を行っていると言えるでしょう。神は子どもを養い導く牧者としての責任を親に与えています。子どもを主の教育と訓戒によって育てるために、親は何よりも子どもの救いを願い、彼らの心をみことばによって教育していかなければいけないのです。