親は一生懸命子どもの悪いところを正そうと努力しますが、外面的な行動だけを修正することに気を取られていては、本当の意味で子どもを正していると言うことはできません。時に親は自分たちの面目を保つために子どもの「行動修正」に励むことがありますが、このような「行動修正」の行為によってどれだけ子どもが良い振る舞いをするようになったとしても、もし子どもの心が変えられていなければ、それは一時的なものでしかなく、むしろ心の変化なしに行動を抑制される子どもに怒りを植え付ける行為になる場合が多々あります。ましてや、自分たちの面目のために子どもを教育するならば、それはあまりにも利己的な目的に基づく行為であり、親の都合によって教育される子どもは親の体裁を保つための道具になってしまいます。そのような教育は主に喜ばれる教育ではありません。親は悪につながれている子どもの心を主の前に正しく養っていく責務があるのです。

では、いったいどのようにして親は子どもの心を養っていくことが出来るのでしょう。まず親は、子どもが罪深い心を持っていることを理解できるように助ける必要があります。子どもたちは自分たちの悪に満ちた言葉や、考えや、行動が、自分の罪に犯された心が生み出したものであり、その問題を解決する方法は福音にしかないことを知る必要があるのです。つまり、子どもたちを教える際にもっとも大切な事柄として常に働きかけていなければいけないことは、子どもが救いを必要としていることを分からせることなのです。これによって子どもは、自分たちにとってもっとも必要なことが救いであるということをはっきりと理解し、親がもっとも関心を持っていることが彼らの救いであることを知るようになるのです。

親は子どもの心に関心を持たなければいけません。なぜならば、ここが最も重要な場所であり、もっとも激しい戦場だからです。この戦場で、罪と義が激しい戦いを繰り広げるのです。その戦いに打ち勝つためには、親が子どもとともに全身全霊をもってこの戦いに挑まなければいけないのです。

子どもの持つ最大の問題は、彼らが未熟なことではありません。経験が足りないことでも、理解力がないことでもありません。子どもの最大の問題は彼らの悪の心なのです。未熟さや、経験、理解力の欠如は、成長とともに解消されるでしょう。しかし、子どもは堕落から自然に脱することはないのです。どれだけ知恵を与えても、経験を積ませても、それらが一番大きな問題、解決しなければならない罪の問題を解決することはないのです。

親として、私たちは子どもの行動だけに焦点を当ててはいけません。心に焦点を当てることがなければ、私たちの子育ては表面的なものとなり、それゆえに子どもたちも霊的に表面的な者となるでしょう。子育ての目標は良い子どもを育てることではありません。行動が制御されている、模範的な子どもを育てることが目標ではないのです。彼らが行儀良く、人々に敬意を払っていれば良いということではないのです。子どもが従順であることでもありません。道徳的基準に従うことでも、私たちの期待に添うために一生懸命物事をすることでも、親が誇りに思うことが出来るようにでもないのです。

聖書的子育ての究極の目標であり、私たちがもっとも焦点を当てなければいけないことは、子どもたちの贖いに関わることなのです。親の責任は子どもたちをキリストへと導くことです。確かに親は子どもに救いを与えることや、子どものために救いを得てあげることは出来ません。親が正しい子育てをしたからといって子どもが救われる保証もありません。しかし、子どもが生まれた瞬間から、その子どもがキリスト者としての生涯を歩み出した確信を得られるまで(単に子どもが信仰告白をしただけではなく、実際に主に従う生涯を歩み出すその日まで)、親は伝道者としての責任を担っているのです。子どもの心を変えることが出来る唯一の方であるキリストへ彼らを向けさせ、彼らが不義を愛することがないように導く役割を担っているのです。

このことを目標としていない子育ては単なる行動修正であることを忘れてはいけません。クリスチャンでない子どもたちも、外面的な道徳的基準に沿って生きることを学ぶことが出来ます。確かにこのような基準を教え、従順に歩むことを学ばせることは大切なことであり、親が実際にしなければならないことですが、これを子育ての中心であり、目標であると考えてはいけないのです。

子どもたちに外面的な自制(従順や正しい行動)を教えることは必要なことです。しかし、それだけではなく、なぜ誘惑があるのか、それに打ち勝つにはどうするべきなのかを教える必要があります。行儀を教えるだけでなく、なぜ高慢が罪であり、なぜ欲望、自己中心が神に憎まれることなのかを教える必要があるのです。外面的な過ちに懲らしめを与えると同時に、彼らの心の汚れがそのような外面的な過ちの根元であることを教え諭す必要があるのです。

ただし、これらの事柄を教えるに当たって、いらいらさせられ、失望させられ、子どもの過ちの被害者となった自分を満足させるために懲らしめを与えないでください。それは怒りであり、復讐でしかないのです。しかし、私たちが彼らを正すとき、子どもが神を怒らせたことを、そして神がイエス・キリストを通して彼らに和解を与えようとしていることを理解できるように助けてあげてください。ありとあらゆる場面を用いて、子どもに神の聖さ、人の罪深さ、神の裁きの正しさ、神の恵み深さ、そしてキリストによる贖いのすばらしさを子どもに教え続けることが大切です。親は子どもの心が「よく耕された地」になるように働きかけるのです。そして福音の種が蒔かれる時に、神の恵みによって豊かに実を結ぶ者になるように祈りの内に働きかけ続けるのです。

親は子どもたちに神の計画の全体を余すところなく知らせなければなりません(使徒 20:27)。みことばが教えられるとき、親は神の求めていることを子どもたちに教え、彼らの罪を戒め、彼らを矯正し、神との関係を正し、神に喜ばれる義の道を歩むための訓練がなされるのです(2テモテ3:15–16)。子どもがこのように義の道を歩むようになるためには、まず子どもたちが救いを得る必要があります。子どもが救いの必要をしっかりと認識し、神との和解を得ることがなければ、みことばを教えたところでそれは彼らに道徳的基準を押しつけるだけでしかないのです。「心の変化によってもたらされない表面的、行動的変化は、喜ばしいことではなく、呪われるべきことである」とある著者は語ります。心の変化を求めない親は、心の頑なな偽善者に子どもを育てようとしていることを忘れてはいけないのです。 私たちはそのような親にならないように注意しなければなりません。