親に対して神は、してはならないことと、しなければならないことを明確に示しています。聖書は「子どもをおこらせてはならない」という「親がしてはならないこと」を告げた後、同時に二つの「親が行わなければいけない責任」を明示しています。それらは子どもを教育することと訓戒することです。子どもを怒らせないように育てるだけではなく、親は子どもを教え、訓戒する責任が与えられているのです。それゆえにクリスチャンである親は、これら二つの責任が具体的に何をすることなのかを正しく理解し、実践していかなければならないのです。

子どもたちに正しい教育をする

エペソ 6:4 で「教育」と訳されている言葉は、ギリシャ語のパイデイアという言葉です。この言葉は、子どもという言葉(パイス)と深い関係のある言葉で、ここには「指導、 家庭教師、養育、育成」といった意味があります。この箇所以外にこの単語は新約聖書で5回使われていて、「教え」(2テモテ 3:16) と訳されたり、「懲らしめ」(ヘブルの手紙 12:5, 7, 8, 11) と訳されたりしています。つまり、この単語には教え、指導するという意味と、懲らしめるという意味が両方含まれているのです。

「教育」というこの言葉には子どもを育てることにおけるすべての事柄が含まれています。親の役割は、「育てる」ことであり、子どもたちは自分で勝手に成長していくのではありません。親は積極的に子どもを育てることに従事し、子どもが成長していく過程に携わっていかなければならないのです。箴言 29:15 は、「わがままにさせた子は、母に恥を見させる」と記しています。ここで「わがままにさせた」と訳されている言葉は、「送り出される」という意味があり、ここでは追い出されてしまったがゆえに一人取り残されたことを指しています。つまり、自分一人で、親からの影響を全く受けずに育った子ども(ゆえに「わがまま」)のことを指しているのです。この箴言が私たちに教えることは、子どもを悪くしてしまうのは、親が何をしたかではなくて、親が何をしなかったかであるということなのです。

子どもを育てる上で鍵となることは、子どもが神の真理を喜んで受け入れるように彼らの心を愛溢れる教育をもって育んでいく環境を作ることでしょう。親は、外面的な環境を整えることに必死ですが、本当に必要なのは子どもの心を育てていく場所なのです。箴言 4:23 は、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 と教えています。私たちのあらゆる言葉や行動は私たちの心から出てくることを聖書は明確に示しています。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、こ れらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。 マルコ 7:21-23
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出し ます。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。 ルカ 6:45

つまり、私たちが何よりも注意を払わなければならないことは、子どもがどのような言葉を使うかでも、どんな行動を取るかでもなく、どのような心の態度を持っているのかということなのです。それゆえに親が子どもを教えようとするとき、それが心に向けられているものなのかを考えなければなりません。親は子どもの心を育み養わなければならないのです。子どもの持っている問題は罪の問題であり、それは心に根ざしています。親が子どもの「悪い言動」を見てそれを指摘するとき、外面的な問題 (具体的な言動) だけに目を向けるべきではないことを理解する必要があります。その悪い言動は子どもの心の問題を反映しているのです。そして親の務めは、子どもの心を変えるための働きかけをすることなのです。

親は子どもの行動が中心的な問題ではないことに気づかなければなりません。行動が変わることは子どもの根底にある本質的な問題を解決することにはならないのです。行動だけが変わっても心が変わらなければ、それは偽善以外の何者でもないのです。