神が子どもに与えている命令は親に従うことでした。その逆が親に与えられている責任です。子どもたちを憤らせることをせずに、神に対する敬虔を養う環境で従順を教えることが、神が親に与えている責任であるとエペソ 6:4 は教えます。これは簡単なことではありません。親は子どもに従順を教えるために必要な事柄をしっかりと理解し、主の前に忠実にこれを実践しなければならないのです。
子どもたちが罪をもっているがゆえに、生まれながらに親を敬い従うことが出来ないように、親も罪の性質のゆえに、神に喜ばれることを常に選択し、実践していく者ではありません。しかしクリスチャンの親は、変えられた心をもっているがゆえに、正しいことをしていきたいと心から願う者であり、罪との戦いの中にありつつ、神に喜ばれる方法で子どもを導いていきたいと願っています。そして神はその方法を私たちに教えてくださっているのです。では、神はどのような責任を親に与えているのでしょう。具体的に考えてみましょう。
子どもに怒りを与えない親
神は子どもたちに、すべてのことにおいて親に従うことを求めています (コロサイ3:20 )。しかし親が常に子どもが従いやすい環境を作っているかと問われれば、その答えは「NO」です。親が自分の罪に支配され、子どもをしつけようとするとき、子どもは親に対する憤りを覚えるのです。このような憤りは子どもが親に従順でありたいと願が育まれるのを妨げます。神はこのような憤りを子どもに与えることがないように親に命じているのです。[注:実際に環境がどのようなものであっても、子どもは親に従わなければなりません。しかし、子どもが従いやすい環境を親が提供することは、子どもが従順を学ぶために必要なことです。]
エペソ 6:4 とコロサ イ 3:21 には、「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません」と記されています。パウロがこの手紙を書いた時代において、ここで教えられていることは当時の一般的な概念を覆す全く新しいものでした。ローマ社会において、父親には絶対的権限が与えられていて、家族の中で自分の思うままに振る舞うことが当然とされていました。それゆえに、父親は誰一人として、子どもを怒らせないように振る舞うことを考えることはなかったのです。むしろ家族全員が父親を怒らせないように注意を払っていました。なぜならば、父親の怒りを受けることは、大きな苦しみを伴うことだったからです。
ローマには、”patria patestas” (父親の力) と呼ばれる法律がありました。これはロー マ市民である男性に対して、家族の所有権を与えるという法律でした。この家に属する者はすべて父親 (または家長) の所有物であり、父親はそれを彼の思うままに用いることが 出来たのです。これは父親が子どもの生涯の全てを支配することを指していました。親によって結婚相手が定められ、また親によって離婚が決定されました。子どもを憎む親は、その子どもを捨てることが許されていましたし、奴隷として売ることも、または殺してしまうことも父親の権限の中に含まれていた事柄だったのです。
子どもが生まれたとき、子どもは父親の足下に置かれました。もし父親がその子どもを抱き上げたらその子は家族の一員として育てられました。しかし、そのままにして立ち去るならば、その子はそこに置かれたまま死んでいくか、市場に連れて行かれて競売にかけられました。こうして売られていった子どものほとんどは、男子ならば奴隷、女子ならば娼婦となるように育てられたのです。障害を持って生まれた子どもや親の希望しなかった性別の子どもは、まるで傷つき価値のない家畜のように、殺されていきました。これが、パウロがこの命令を書いた時の子どもに対する社会的態度だったのです。
このような状況の中で、パウロは親に対して「子どもをおこらせてはいけない」と命じました。当時とは社会情勢や文化背景の違う現代日本にあっても、ひょっとすると「おこらせてはいけない」という言葉は、親にとって衝撃的な言葉かもしれません。しかし聖書ははっきりと親に対する命令として、子どもに憤りをもたらせない育て方をすることを求めているのです。
聖書は父親に独裁者としての権限を与えていません。子どもたちは親の所有物ではないのです。聖書は、神が親に子どもを管理する責任を与えたことを教えます。神が子どもの主であり、その子どもを育てる責任が親に与えられているのです。ですから神の前で管理者である親は、いかにその働きに忠実であったのかを計られるのです。そしてその審判の基準がエペソ 6:4 に記されているのです。
パウロの言葉は親に対する注意、または警告であり、親が意図的に、または不用意に挑発することによって子どもの怒りを引き起こさせないために与えられている命令です。時に子どもは自らの罪深さのゆえに親に対して怒ることがあります。このようなときは子ども自身の自己中心や、未熟さ、間違った態度が怒りの原因であり、罪を犯しているのは彼らの方です。しかし親が子どもを怒らせるときがあります。子どもに対して思慮に欠けた腹立たしい言葉を用いたり、意図的に彼らの感情を刺激したり、冷淡に無視したり、それ以外の軽率に、または故意に行う事柄をもって彼らを怒らせることがあるのです。このようなことがおこるとき、罪を犯しているのは親です。そして親は自らの罪をもって、子どもが「怒り」「反抗」「不従順」という罪を犯すように促しているのです。子どもたちは神から親を敬うように命じられています。親が子どもを怒らせるとき、親は子どもがこの命令に逆らう原因を作っているのです。このような場合、エペソ 6:4 に逆らっているだけでなく、子どもをつまずかせるという罪もそこに重ねているのです。