子育ては、休み休み行うことの出来るような責任ではありません。主は、イスラエルの民にこう命じています。

「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちに良く教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」申命記 6:6-7

神は親に言うのです。休むことなく、どんなときも子どもたちを教え導かなければならないのだと。子どもとの時間は、価値のある、内容の濃い時間であればよいと考える風潮がありますが、それは申命記 6:7 に書かれている精神に反することです。このように特 定の時間だけ親として子育てをしようと考えるならば、間違いなくほかからの影響を子どもたちは受けて育っていくことでしょう。

イスラエルの歴史は、「子どもたちに神について教える責任を親が怠ったときにどのようなことが起こるのか」というレッスンを私たちに与えています。次のみことばを見て、考えてみてください。

「民はヨシュアの生きている間、また、ヨシュアの後まで生き残って主がイスラエルに行われたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた・・・ その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らの後に、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」士師記 2:7, 10

ここで、イスラエルの民がその子どもたちに対して与えられていた責任を全く果たさなかったことが記されています。しかも、わずか一世代しか時が経過していないのに、子どもたちに主のみわざを伝え教えなかったことが原因で、イスラエルの民は「主の目の前に 悪を行い、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れだした父祖の神、 主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた」(士師記 2:11-12)のです。イスラエルの民は、彼らの親がその責任を全うしなかったがゆえに、周りからの影響を受け、真の神を慕うのではなく、カナン人たちの偶像を慕うようになりました。そして彼らは、めいめいが自分たちの目に正しいと見えることを行うようになったのです(士師記 17:6; 21:25)。このようなパターンは、イスラエルの歴史を通して繰り返し起こりました。一つの世代が、その子どもたちに対して与えられている責任を全うしないとき、次の世代は霊的飢餓の中で苦しむようになったのです。

同じことが今日も起こっています。このまま何もしなければ、私たちの子どもたちにも霊的飢餓の中での苦しみが待っているのです。それをうち砕くためには、クリスチャンの家庭が変わらなければなりません。神の前に敬虔に生きることをよしとする良い影響を与えるために、フルタイムの働きを始めなければならないのです。

多くの親にとって、そのための最初の一歩は自らの神への献身を新たにするところにあるでしょう。私たち自身の優先順位が間違っていては、教えなければいけない正しいことを子どもたちに教えることは不可能です。自分の心を吟味してください。あなたは鹿がその渇きをいやすために水を慕い求めるように神を求めているでしょうか。それともあなたの生涯は子どもたちに霊的無関心と偽善のメッセージを送っているでしょうか。あなた自身のキリストに対する忠誠は、あなたの子どもに望んでいるものと等しいでしょうか。 あなたのみことばに対する従順は、あなたの子どもの生涯にあって欲しいと願うような従順でしょうか。これらのことを真剣に考えることは、私たちが主にほめられる親となるために、また子どもたちの良い模範となるためになくてはならないことなのです。

親が霊的に怠惰であるとき、それは子どもの主に対する正しい渇望を妨げます。次の世代が主に喜ばれる者となるために、私たちが主に与えられているこれらの責任を全うする必要があるのです。親として神に喜ばれる者であるために、私たちは自らに与えられて いる責任をしっかりと理解し、それを忠実に実践していかなければなりません。そうすることによって、私たち親はこの世の悪の荒波から子どもたちを守る防波堤となること が出来るのです。